清水谷公園と、紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡と ~東京都千代田区の史跡・公園 | 九州下町おやじの珍道中

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20197月中旬の四ッ谷散策の続き。

 

 

四谷見附橋から「尾張名古屋藩屋敷跡」「喰違見附跡」「近江彦根藩井伊家屋敷跡」を見学し、「紀尾井坂」を下った後は、「清水谷公園」に向かいました。

 

 

 

尾張名古屋藩屋敷跡・喰違見附跡・近江彦根藩井伊家屋敷跡・紀尾井坂のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12595770280.html

 

 

 

紀尾井坂」を下ると「清水谷」の案内板があります。江戸時代、この地にあった尾張徳川家の表門から南北に下る道筋を「清水谷」といい、「清水谷」から「喰違見附跡」へと登る坂道が「紀尾井坂」です。

 

 

 

紀尾井坂から南に、赤坂見附方面に進むと、「清水谷公園」があって、その入口には、また別の「清水谷」の由緒書きがありました。江戸時代、この地域には紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があり、その頭文字から「紀尾井町」と名付けられています。

清水谷」の名は、紀伊家と紀州徳川家の屋敷境の谷筋から清水が湧き出ていたことに由来します。

 

 

明治11年(1878)清水谷付近で大久保利通卿が暗殺され、「贈右大臣大久保公哀悼碑」(千代田区指定文化財)が建てられました。

清水谷公園」は東京市によって整備され、明治23年(1890)に開園。昭和40年(1965)に千代田区に移管されています。

公園内には、江戸の水道施設である「玉川上水の石枡」(麹町3丁目2番地先出土)が展示されています。

 

 

 

清水谷公園」の中に入ります。すると、井桁に組まれた石組と、手前には「清水谷」と刻まれた小さな石碑があって…。

 

 

 

清水谷公園」には、大きな池があります。清水が湧き出ているからなんでしょうね。

 

 

 

公園内には「偕香苑」という建屋があって…。

 

 

 

こちらにも、池が続いています。

 

 

 

清水谷公園」には、塀で囲われた大きな石碑があります。

 

 

 

こちらは、「贈右大臣大久保公哀悼碑」。明治11年(1878)に暗殺された大久保利通卿を偲んで明治21年(1888)5月に建立された碑です。

 

 

大久保利通は薩摩藩の出身の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任しました。

西南戦争終結後、一部の士族らが大久保政策に反発し、1878年5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂仮皇居内の太政官へ出仕する途中の馬車を襲い、暗殺しました。

湧き水があったことから清水谷と呼ばれたこの周辺は、明治23年(1890)に東京市によって整備され「清水谷公園」となりました。

 

 

 

贈右大臣大久保公哀悼碑」をじっくりと…。囲われていますので、近づけなくて残念!

 

 

 

贈右大臣大久保公哀悼碑」の前には、また別の由緒書きがありました。参議兼内務卿大久保利通は内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあったので、「紀尾井坂の変」とも呼ばれ、人々に衝撃を与えました。

 

 

 

大久保の同僚だった明治政府の官僚たち(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳を偲び、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。

哀悼碑」の高さは、台座部分も含めると6.27m。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。

 

 

 

大久保公記念碑の裏面碑文内容の説明」が詳しく書かれていますね。

 

 

 

贈右大臣大久保公哀悼碑」の裏面の碑文。近づけないので、よく見えません…。ま、近づけても、難しくて読めないでしょうけど(笑)

 

 

 

清水谷公園」の園内を進むと、大きな石の塊が展示されています。左のものは、真ん中に穴が開いていますね。

 

 

 

こちらは、「玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)」。昭和45年(1970)国道20号線(麹町大通り)の共同溝拡幅工事の際に発見された玉川上水施設の一部です。

 

 

玉川上水は、4代将軍徳川家綱公の命で、承応2年(1653)に着工し、翌年に竣工したと伝えられ、取水地は羽村の多摩川上流で、四谷大木戸に至る約43kmを開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水していました。

この石枡は、江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造を持っていて、1段目と2段目にまたがる部分に木樋の挿入口がありました。

石枡とともに出土した木樋は千代田区立日比谷図書文化館で展示されています。

 

 

 

玉川上水の施設が発見されたのか~こんなにもデカい石枡が使われていたというのにも、驚き!スゴい!

 

 

 

いやはや、かなり立派なものですよね。精巧にできているし♪

 

 

 

石枡の上の方も、じっくりと…。ホントだ、幾重にも重ねることができるようになっているみたいですね!

 

 

 

清水谷公園」から、更に赤坂見附方面に進むと、右側にはホテルニューオータニが続いているんですが、その先には、石垣とその上の大木が見えて来て…

 

 

 

その向かいには、東京ガーデンテラス紀尾井町があります。

 

 

 

赤坂プリンスホテルですね。新しいビルに建て替えられたのですね…赤プリ…懐かしい(笑)

 

 

 

その隣のお濠の脇には、「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の石碑が建てられています。

 

 

 

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の由緒書き。この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火後に、この地を拝領しました。

 

 

紀伊徳川家は、徳川家康公の十男徳川頼宜公に始まる家で、尾張家(九男徳川義直公)、水戸家(十一男徳川頼房公)とともに御三家と称され、頼宜公は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。

紀伊徳川家は、以後、14代に渡って明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍徳川吉宗公と14代将軍徳川家茂公は、藩主から将軍の座についています。

石高はほぼ55万5,000石でした。

明治5年、この地域は紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

 

 

 

お堀には、弁慶橋が架かっていて…

 

 

 

弁慶橋から、江戸城弁慶濠を眺めて…

 

 

 

江戸城の石垣が、赤坂見附にも残っているんですよね♪

 

 

 

木々も多くて、お濠の雰囲気も残っていて、いいな~♪

 

 

 

この日の散策は、これにて終了。赤坂見附駅から地下鉄に乗って帰路に来ました。

江戸城の周りは都心部なので、大部分がビルになってしまっていますが、江戸城の名残がほんの一部ですが、こうして残っているですね。散策してみて、改めて認識しました。

 

東京も史跡が残っているもんだな~♪また都内を散策してみましょう(^^)

 

 

 

 

清水谷公園

東京都千代田区紀尾井町2-1

 

 

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡

東京都千代田区紀尾井町4-26

 

 

 

 

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