2019年1月14日の四つ木・立石・青砥散策レポの続き。
「本奥戸橋」の袂の「地蔵尊・馬頭観音・道標」、中川沿いの「地蔵堂」、「立石の帝釈天道標」を回った後は、「立石」に向かいました。
本奥戸橋・地蔵尊・馬頭観音・道標・地蔵堂・立石の帝釈天道標のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12509428297.html
「立石の帝釈天道標」から道標の指す方向には行かず(笑)、中川沿いに進み、一つ目の石段を下って、路地を進みます。
路地の正面には、「立石児童遊園」という公園があって、その中に、小さな鳥居と玉垣があるんですよね。
鳥居脇にある由緒書き「立石」。東京都の史跡に指定されています。
「立石」は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。
石材は、千葉県鋸山周辺の海岸部で採取された、所謂、房州石で、最大長約60cm、最大幅約24cm、高さ約4cmが地上部に露出しています。
元々は、古墳時代の石室を造る為にこの地に持ち込まれた石材と考えられています。
一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされ、この「立石」がある児童遊園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じていて、平安時代の古代東海道に推定されていますので、この「立石」は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。
江戸時代後期以降、「立石」は寒さで欠け、暖かくなると元に戻る「活蘇石」として「江戸名所図会」などの地誌類に多く記録されるようになります。
「立石」が玉石垣で囲われるようになったのは、文化年間(1804~1818)以降で、その周囲には梛や小竹が繁茂する社叢を呈していました。
「雲根志」には、「立石」が高さ二尺(約60.6cm)程度であったとされていますが、御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や愛石家のコレクションとして、人々に削り取られて、また御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在の高さに至っています。
大正12年には、人類学者の鳥居龍蔵がこの地を訪れ、石器時代人が信仰の為か、墓標として建てたものと結論付けていますし、中谷治宇二郎、大場磐雄ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として、取り上げられてきました。
東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰を伺い知ることができ、日本先史時代の研究史上重要な遺跡です。
なるほど…。「立石」の地名は、この「立石」から来ているのか~知らなかった!
小さな石の鳥居に近づいて…。
鳥居の奥には玉垣があります。
玉垣の中をじっくりと…。
地面から石が顔を出していますね。高さ4cmほど、地面より出ているみたいです(^^;
これが江戸時代には、約60cmほどあったそうですが、削り取られてしまって、今はもう…(涙)
玉垣の後ろには、石祠があります。
祠に近づくと、「立石稲荷大明神」と刻まれていました。
石祠の裏には、願主 立石新右衛門とあって…。
祠の近くにある石碑。「立正薬竃天」と刻まれているようですが…。
「立石」を後ろの方から…。
「立石」の小さな鳥居の正面には飛び石が敷かれていて、その先には、また石の鳥居と「立石祠」と刻まれた石碑があります。こちらが正面なんですね…裏手から入ってしまいました(^^;
葛飾区立石には「立石」という石が、実際にあるとは!今回の散策で初めて知りました!なかなか興味深いな♪
「立石(立石祠)」を見学した後は、「南蔵院」に向かいました。
その様子は、また後日。
立石(立石祠)
東京都葛飾区立石8-37-17(立石児童遊園内)
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