2018年7月中旬に、仕事で、東京駅から八丁堀駅に出掛けたのですが、仕事の合間に、またまたちょいと散策しちゃいました(笑)
東京駅八重洲北口を出た所、外堀通り沿いに、「都旧跡 北町奉行所跡」という史跡案内板があるんですよね。
江戸町奉行は、徳川幕府の職制の一つで、寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれ、江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行、道役小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統括していました。
その職掌は、江戸府内の行政、司法、警察の一切に渡っていて、定員は2名、南北両奉行に分かれ、月番で交代に執務していましたが、時に応じて、増減されました。
原則として、旗本が任命され、役料は3,000石、芙蓉間詰めで、勘定奉行の上座、輩下に与力、同心などがいました。
「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は、天保11年(1840)3月から3年間、北町奉行の職にありました。
その由緒書きには、北町奉行所の位置関係が描かれていて…。あら?奥に入った場所になるんですね…。駅前とばかり思っていました…(^^;
北町奉行所跡に向かって、ビルの間を抜けて行きます。
通路を進んで行くと、大きな石が並べられていて…。石垣の石のようです。
たくさん並んでいますね。ちなみに、写真に見える通路は歩いて来た通路になります。
並べられた石の近くにも、「北町奉行所跡」の由緒書きがありました。
この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていて、南町奉行所は、現在の有楽町駅前にありました。
平成12年からの発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。
ここに復原した石組みの溝は、ここから西方約30mの地点で発見された、屋敷北東角の道路との境を巡る下水道の一部です。
この遺構は、本来3~4段の石積みであったものと思われますが、発見された時は、最下段を残すのみでした。
溝の角石が切り取ってあるのは、邪気が侵入する鬼門である艮(うしとら:丑寅)の方角を防護する為の呪術的な意味を示すものとされています。
この由緒書きの右側には、発掘調査時の写真と位置図がありました。
由緒書き「北町奉行所跡」がある場所は、こんな所です。まさに、ビルの谷間…(^^;
「北町奉行所跡」を見学した翌日に、八丁堀方面に出かけたんですが、東京駅方面から鍛冶橋通りを歩いて行くと、首都高速の高架の手前に、公園のような空間があるんですよね。
その広場は、弾正橋の袂、西詰にあります。
弾正橋を渡ると、橋の脇にも、広場のようなスペースがあって…。
スペースの真ん中辺りには、橋のようなモニュメントがあって…。(この写真のみ2019年5月中旬撮影)どこかで見たことあるような気がするんですが…?あっ!そうだ!富岡八幡宮近くで見た「八幡橋(旧弾正橋)」だ!!!
富岡八幡宮の近くの八幡堀遊歩道に架かっている「八幡橋」は、明治11年(1878)に、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製作された国産第1号の鉄橋で、元は京橋区(中央区)の楓川(もみじがわ)に「弾正橋」として架けられたものです。
関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)に、八幡堀遊歩道に移設され、富岡八幡宮の東隣である為、名称も「八幡橋(はちまんばし)」と改められました。
富岡八幡宮の近くに施設された「八幡橋(旧弾正橋)」は、ここに架けられていたのか~♪
八幡橋(旧弾正橋)のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12460470877.html
弾正橋の中程から、宝町駅方面を…。
弾正橋を渡って、親柱。
弾正橋から北側2つ目に架かる橋は、宝橋と言います。
宝橋の西詰、北側には、祠があるんですよね。
祠の中には、宝地蔵尊がいらっしゃいました。
宝橋にも、公園のような広場があるんですよね。
まだまだ知らない街、お江戸・日本橋・八重洲・京橋。
日時を変えて、散策を継続しましたので、後日、またアップして行きますよ(^^)
北町奉行所跡
東京都千代田区丸の内1-8
宝地蔵尊
東京都中央区京橋1-19-2付近
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