先日2018年4月上旬の「富賀岡八幡宮」の続き。
富賀岡八幡宮(その1)のレポ
https://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/42061126.html
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12375396101.html
「富賀岡八幡宮」の本殿の奥に進むと、朱の鳥居があって…。扁額には「砂村浅間神社」とあります。
朱の鳥居をくぐると、正面には石祠。
石祠の横には、力石のような丸い石がいくつも並んでいました。
その近くには「砂村囃子」と刻まれた大きな石碑があって…。
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砂村囃子
江東区指定無形民俗文化財(民俗芸能)
砂村囃子(すなむらばやし)は、享保年間(1716~36)の初めに金町の香取明神社(現在の葛西神社)の神官能勢環(のせたまき)が、 農民に囃子を教え、それが近隣の農村に広まったものと伝えられています。葛西囃子や神田囃子と同じく 江戸近辺の祭囃子のひとつで、大太鼓1、締太鼓2、篠笛1、鉦1で演奏します。 富賀岡八幡宮をはじめ、区内神社の祭礼、祝儀の場などで演奏されています。(江東区観光協会HPより)
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http://koto-kanko.jp/guide/about_sunamura/
その隣には「無形文化財 江戸祭囃子」という石碑があります。
その隣にも、石碑が!こちらもお囃子の記念碑のようですが…。文字が読めない(涙)。
その横にも、大きな石碑があるんですよね。こちらは「浅間神社」の記念碑のようです。浅間神社というと…。
その近くにも、石碑がいくつも並んでいまして…。
その中で目立つのが、これ!湯殿山、月山、羽黒山と刻まれていますので、出羽三山の山岳信仰によるものなのでしょうか…。
由緒書き「出羽三山の碑」。文字が…薄くなっていて、読み辛い…(涙)。
「砂村浅間神社」に向かって右手、「富賀岡八幡宮」の本殿の真後ろには、こんもりした山が!
その小山に近付いて…。石段がありますが、「注意 あぶない 落石あり、山え登らないこと」と書かれていますね…。なので、この日は、登るのを止めました(^^;
「浅間神社」があって、小山がある…。ということは…「富士塚」か!
石段の近くには、「富士山登頂記念碑」がいくつも並んでいますね。砲弾もあります(笑)
その手前には、手水石のようなものがあって…。
由緒書きがありました。「砂村の富士信仰の象徴 江東区指定有形文化財 砂町の富士塚」
この富士塚は、江戸時代末期の天保4年(1833)までに富士講の一つ「山吉講」によって造られたもの。
江戸時代後半に爆発的に広まり「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山の写しを住居の近くに築き、富士塚に登ることによって本山に登山するのと同じ功徳が得られると考えたのです。
「砂町の富士塚」は、頂上に向かう登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を造っています。現在では、途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が造られています。
右(北)には宝永山を表す小さい高まりを造り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴も造られていて、頂上に登り、富士山の方角を拝すると、浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚は元々、30mほど北にあり、当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので、表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)に現在地に移されました。
その由緒書きの下には写真も掲示してあります。「南東方向から見た砂町の富士塚」。昭和30年頃のものなんですね。
「砂町の富士塚」の回りを一回りしてみましょう!
溶岩で固められたのは、昭和8年になってからなのか~。
それにしても、立派な富士塚ですね!
東京都江東区南砂町にある「富賀岡八幡宮」。
深川の「富岡八幡宮」の元宮が、ここ砂町にあったとは、鬼平犯科帳で読んで初めて知った次第で…地元から近い場所なのに、全然知りませんでした…(^^;
それがどこにあるのか、よく分からない中、偶然に見つけられるなんて!
こんなに嬉しいことはないです♪
それに、立派な富士塚まであるとは!
江戸時代の富士山信仰って、大流行したんですね…。
歴史ある由緒正しき神社にお参りできて、良かった!(^^)
富賀岡八幡宮
東京都江東区南砂7-14-18
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