旧円融寺庭園・大村護国神社(その3)旧円融寺庭園 ~長崎県大村市の神社・史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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2017年2月2日の大村歴史散策の続き。

 

大村護国神社・旧円融寺庭園」の続き。

 

 

旧円融寺庭園・大村護国神社(その1)大村藩三十七士の碑のレポ。

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12347911128.html

旧円融寺庭園・大村護国神社(その2)戊辰の役戦没者の碑のレポ。

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12348171515.html

 

 

戊辰の役戦没者の碑」の後ろ側の斜面にたくさんの石を配置した「旧円融寺庭園」を今一度、じっくりと…。

 

 

いや~これは見事だな~。壮観です!

 

 

旧円融寺庭園」のある「大村護国神社」の境内は、正直、他に何にもなく広場のような空間が広がっているんですよね…。

 

 

合祀者名碑」があって…。

 

 

鳥居があってくぐると、石段がありました。こちらが参道のようです。今回はお隣の「春日神社」が来てしまいましたので、順路が逆になっていました(^^;

 

 

振り返って、鳥居を…。

 

 

扁額には「大村護国神社」とあって…。

 

 

石段を下り切って、振り返ると…。

 

 

参道の脇には、池があります。

 

 

反対側にも…。

 

 

由緒書き「旧円融寺庭園」。松林山大乗院円融寺は、江戸時代初期の承応元年(1652)4代藩主大村純長によって、徳川家光以下歴代将軍の位牌を祀る為に創建された天台宗の寺院です。

 

大村純長は幕府勘定奉行伊丹勝長の四男で、3代藩主大村純信の養子となりましたが、幕府の正式な許可が下りる前に、純信が亡くなり、大村藩は存亡の危機を迎えました。

3代将軍徳川家光の裁可で跡目相続が許されたので、その恩義に報いる意味で、家光の没した翌年に建てられました。このような寺は、御三家及び五万石以上の大名に限り幕府は許しましたが、純長の強い懇願によってできたといわれています。

 

建設に当たっては、当時、五島灘一帯にかけての捕鯨業で莫大な材を成していた深澤儀太夫勝清の寄進により、その費用が賄われたと伝わっています。

 

明治維新に廃寺となり、戊辰戦争の戦死者を祀る為の旌忠塋(せいちゅうえい)が建てられ、後に招魂社と改称し、ついで護国神社と改められ今日に至っています。

 

 

由緒書きの後段には、配置図があって…。

 

 

国指定名勝 旧円融寺庭園」と刻まれた石碑。

 

 

大村護国神社」の参道入口。

 

 

しかし、ここからレポしないと、ちょっと分かりにくかったですね(^^;

 

 

大村護国神社・旧円融寺庭園」を参拝した後は、大村駅方面に戻りながら、大村散策を続けました。

その様子は、また後日。

 

 

 

大村護国神社・旧円融寺庭園

長崎県大村市玖島2-505

https://www.city.omura.nagasaki.jp/kanri/kanko/miryoku70sen/otozu/mesho/1-2.html(大村市HP)

https://www.city.omura.nagasaki.jp/omurasyo/kyoiku/kyoiku/shiritsugakko/sho/omura/shiseki/enyuji/index.html(大村市HP)

 

 

 

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