旧円融寺庭園・大村護国神社(その1)大村藩三十七士の碑 ~長崎県大村市の神社・史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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2017年2月2日の大村歴史散策の続き。

 

春日神社」をお参りした後は、すぐ隣にある「旧円融寺庭園」に向かいました。

 

 

春日神社のレポ。

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12342247371.html

 

 

春日神社」の参道の石段の横の方に、石段があるんですよね。

 

 

その石段を上ると、由緒書きがありました。「大村藩三十七士の碑」。

 

幕末の大村藩は、渡辺清・昇兄弟、針尾九左衛門松林飯山長岡治三郎楠本正隆らを中心として、勤王の動きがありました。彼らは同志で血盟を結び、密かに会合を続け、諸藩の志士たちと交わり、時の藩主大村純煕へ幾多の建言を行うなど、その活躍は目覚ましいものでした、この同志が後に「三十七士」と呼ばれ幕末の大村藩を率いた集団です。

慶応3年(1867)中心人物の一人であった松林飯山が暗殺された事件を契機に佐幕派の多くが処罰され、藩論が勤王に統一され倒幕に向かいました。

明治2年、新政府の論功行賞により大村藩に与えられた賞典は、薩摩、長州、土佐に次ぐ三万石。倒幕における大村藩の活躍を高く評価されたことがうかがえますが、このことは、藩主の英断とともに、その原動力となった三十七士の活躍によるものが大きかったといえます。

これらの碑は、三十七士の功績を讃える為、倒幕の際に倒れた人簿とが祀ってある当地に、37人の碑を死没順に並べて建てられました。

明治36年に建設が始まり、松林飯山を筆頭に大正6年に三十七基がそろった、とあります。

 

 

大村藩三十七士の碑」を見て行きましょう。向かって一番右に「旧大村藩勤王同盟三十七士」と刻まれた石碑があり、その左隣に、松林飯山梅沢武平宇田大村)太左衛門朝長熊平、と続きます。

 

 

福田弘人村山與(興)右衛門松田宣風(要三郎)山川前耀(清助)…。

 

 

常井邦衛根岸主馬浜田弥兵衛藤田周敏(小八郎)加藤勇…。

 

 

中村平八長岡治三郎十九貞衛久松源五郎土屋善右衛門…。

 

 

小佐々祐和(健三郎)楠本正隆(勘四郎)北野道春渡辺清(範助)…。

 

中尾静摩(俊輔)、針尾(兒玉)九左衛門、中村公知(鉄弥)、(根岸)喜多陳平…。

 

 

山川宗右衛門、沢井官兵衛(六郎太夫)、松浦煕(大村歓十郎)、稲田又左衛門(東馬)、野沢俊元(門衛)、柴江運八郎、浅田煕(千葉之助)…。

 

 

渡辺昇、長岡重弘(新次郎)、原三嘉喜、戸田又蔵(圭次郎)の三十七士。

 

 

大村藩三十七士の碑」を左端から…。向かって右から、亡くなった順番に並べられているそうです…。

 

 

大村藩三十七士の碑

https://www.city.omura.nagasaki.jp/omurasyo/kyoiku/kyoiku/shiritsugakko/sho/omura/shiseki/37shi.html(大村市HP)

https://www.city.omura.nagasaki.jp/kanri/kanko/miryoku70sen/otozu/mesho/1-1.html(大村市HP)

 

 

大村藩三十七士の碑」の前には、社殿があって…。

 

 

その近くには「松林廉之助漸神霊」と刻まれた大きな石碑がありました。松林飯山を祀る石碑になります。

 

 

奥に進むと、また墓石のような石碑が並んでいて…。左側には「○垣登守藤原伯友神霊」(一番上の文字が判読できませんでした)、右側には「隈紀八郎平包俊神霊」とありました。墓碑のようですね。

 

 

その横にも墓碑が!左手は「森建平」、右手は「辻源四郎」と刻まれているようです。

 

 

その2」に続く。

 

 

 

大村護国神社・旧円融寺庭園

長崎県大村市玖島2-505

https://www.city.omura.nagasaki.jp/kanri/kanko/miryoku70sen/otozu/mesho/1-2.html(大村市HP)

https://www.city.omura.nagasaki.jp/omurasyo/kyoiku/kyoiku/shiritsugakko/sho/omura/shiseki/enyuji/index.html(大村市HP)

 

 

 

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