長生寺(その2)~広島県竹原市の寺院 | 九州下町おやじの珍道中

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2016年4月3日の三原散策の続き。

長生寺」の続き。


長生寺(その1)のレポ。
http://ameblo.jp/indyaki12/entry-12244560102.html


先程の眺めのいい場所は、入口の楼門の脇でした。


境内の奥に進むと、また別のお堂があって…。


その隣には、由緒書きにあった「庚申堂」が見えて来ました。


庚申堂」の手前には、三猿が!「見ざる、言わざる、聞かざる」…。可愛い♪


境内の奥は、墓地になっていて…。



石段を上がり、坂道を登って行きます。


墓石が並んでいて…。


石垣の上にも墓石があるようですが、その横には石碑があって…。「広島県史跡 唐崎常陸介墓」と刻まれています。


その横には由緒書きがあって…。「広島県史跡 唐崎常陸介墓」。
 
唐崎常陸介士愛(からさきひたちのすけことちか)は、代々磯宮の神官で、宝暦元年(1751)から7年間、伊勢の谷川士清(ことすが)に学び、竹原に帰り子弟の教育に当たっていましたが、安政期から寛政期に禁を犯して、尊王論者として、高山彦九郎とともに活躍。
寛政5年に高山彦九郎が久留米で自殺すると、寛政8年(1796)ここ「長生寺」の境内の先祖の墓前で切腹したそうです…。


更に、坂道を登って行くと、「蘭学者 眼科医 日高凉台墓」があって…。


墓石がいくつも並んでいますね。



日高凉台墓に近付いて…。
『日高凉台 ひだか-りょうだい
1798*-1868 江戸時代後期の蘭方医。
寛政9年12月10日生まれ。京都で新宮凉庭(しんぐう-りょうてい)に,長崎でシーボルト,吉雄権之助(よしお-ごんのすけ)にまなぶ。大坂で開業し,のち故郷の安芸(あき)(広島県)竹原で眼科の診療に従事した。明治元年9月17日死去。72歳。名は精,惟一。字(あざな)は子精。別号に六六堂など。著作に「和蘭(オランダ)用薬便覧」など。(コトバンク「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)』
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%AB%98%E5%87%89%E5%8F%B0-1103488


日高凉台墓」の前辺りから、本堂を眺めて…。


更に、坂道を登って…。


右側に、「寺本立軒之墓」がありました。
『寺本立軒 てらもと-りっけん
1650-1730 江戸時代前期-中期の医師。
慶安3年生まれ。安芸(あき)広島藩につかえていたが,浪人して延宝8年竹原で医者を開業した。このとき斎藤と改姓。竹原の地誌「竹原下市一邑志」をあらわした。享保(きょうほう)15年5月4日死去。81歳。名は忠衡。著作に「磯宮縁起」。(コトバンク「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)』
 
 
釈迦如来像弘法大師像が安置されていて…。お地蔵様もいらっしゃいますね。


更に進むと、「河野通直公墓所」に到着。


河野通直公の墓石に近付いて…。


墓石の近くには「前豫州太守河野通直公之墓」と刻まれた石碑があって…。


由緒書き。



更に進んで行くと、古そうな石像がありました…。
 
 
竹原の高台の上にある「長生寺」。
小早川隆景公が、河野通直公の菩提を弔う為に建立した寺院。
歴史と由緒ある寺院でした。
墓所の坂道には、石が並べられ、歩き易くなっていましたし、眺めも良かった♪
でも、坂は坂ですから、登って行くのはちょっとしんどいですね(笑)。

竹原の歴史を感じることができる寺院。お参りできて良かった!


長生寺」をお参りした後は、その隣にある「普明閣」に向かいました。
その様子は、また後日。



長生寺
広島県竹原市本町1-16-22
http://www.takeharakankou.jp/guide/see/choseiji.php(竹原市観光協会HP)
http://www.city.takehara.lg.jp/bunkasyougai/manabi/bunkazai/hitatinosuke.html(竹原市HP)
 
 
 
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