こんにちは、こんばんは。
4月末は、楽しみにしていた映画がいくつかあり、そのひとつが、イタリア映画の『Rapito(誘拐)』。
なぜこの時期の映画化だったのかは、つい深読みしていまいますが。
(2023年出品作という事は、その数年前から準備制作を始めていたはずで。)
1850年代に実際に起きた、カトリックによる、ユダヤ人の子(ユダヤ教徒の家庭)の誘拐事件。
イタリアの時代的な背景ともあいまって、非常に興味深い映画でした。
当時「ローマ」とは、教皇領をさし、政治的にイタリア政府と対立していたんですねえ。
政府軍がローマ教皇の教会を襲撃し、イタリア国旗をふって、「イタリア万歳」「ローマ開放」
と叫んでるんです。知らなかったわー。
個人的にはユダヤ教とキリスト教の違いを繊細に描いている所も、とても興味深かった。
ところで日本人だと、キリスト教には2種類あると考えてる人が多いと思うけど、厳密には、
ユダヤ教→キリスト教(カソリック)→キリスト教(プロテスタント)
と、元々あった宗教を、改革(教会の腐敗など)しようとするたびに、新派が誕生、みたいに
展開してった訳ですね。
つまり、ユダヤ教を改革しようとしたユダヤ人イエスは、ユダヤ教守旧派に殺され、
彼の教えを、弟子たちが「キリスト教(油を塗られた者=選ばれし者=救い主」として布教し、
ここにキリスト教が誕生した、そうな。
この弟子の中の一人ペドロの後継者=ローマ教皇となり、ここに最大派閥「カソリック」誕生!
後年更に、今度は腐敗していったカソリックを改革しようとして、「プロテスタント」が誕生!
多分こんな流れだったと思う。
なので、ユダヤ教徒によって、貼り付けにされたユダヤ人イエスをあらわす“十字架”は、
両キリスト教のシンボルマークになっているが、ユダヤ教のシンボルマークではない。
アーメンと言って十字を切るのも、クリスチャン特有の動きであって、ユダヤとは違う。
映画では、ここ(十字架)を、違いの証明として結構繰り返し強調してる感じがしました。
そして、就寝前に祈るユダヤ教の言葉は、
「イスラエルよ、、、」
で、始まる。
この言葉は何度も作中に出てきて、教会で育てられてる子供達は、夜ベッドで主人公の
この言葉を聴いてすぐに、
「えっ?-君、ユダヤ人なの?」
と、とびおきてベッドに集まるんですね。
日本人としては、へー?ほー?そうなるんだ?って感じ。
いずれにせよ、キリスト教はイエスの死後、ヨーロッパに爆発的に普及して、西欧社会の
精神的なインフラになっていったので、この時から、イエスを殺害したユダヤ人が、
差別と迫害の標的にされた、という、根深~くて嘘のような本当の話があるようですよ。
イエスは30歳代で殺されたそうなので、西暦はイエスの誕生を紀元としてますから、
大体、紀元30年位から今に至るまで、2千年近くも、ユダヤ教徒はヨーロッパの大多数の
キリスト教徒に嫌われてきたってことになりますか?宗教に由来して?
根が深すぎてついていけません!
「神の子は、ユダヤ人によって殺されたのよ。」
と教会の女が、さらわれてきたユダヤ人の幼子に吹き込むシーンは、なんとも言えん。
ここで映画の話に戻りますが、実際に1858年に起きた、誘拐事件の大元は宗教問題。
この時代は、変人とか狂人とも言われるピウス9世の時代で、イタリアはまだ、ローマの支配下。
ユダヤ人家庭からカソリックの教会に合法的に?浚われ、そのまま教会で育った主人公は、
大人になって教会の権威が失墜し、自由の身になっても、ユダヤ教徒に戻る事はなく、
カソリックの司祭となって、90歳近くまで生き、なくなったそうです。
6歳でさらわれ、カソリック教会で教育を受け、そちらに馴染んでしまったのです。
彼は、母親の死に際にはかけつけて、洗礼を施そうとし、ユダヤ教徒の母に拒否されます。
同じくユダヤ教徒の兄弟たちに、ぼこぼこにされていました。
宗教が、はじめは物理的に、そして最終的には精神的にも、親子兄弟を引き裂いてしまった。
これが宗教という名の、「洗脳」の正体かな。
なんだか、今日の日本にもみかけるような話です。
振興宗教に子供を取り戻しにいく親も居れば、宗教二世で苦しむ子供も居ますよね。
私は宗教は大嫌いなんですが、仕事柄、周囲には何らかの宗教に所属する外国人だらけ。
日本でビジネスしてる分には、「国籍も宗教も関係ないよ。」とか言ってる良き隣人ですが、
いざ、国際的な戦争とかなったら、この精神の根っこにある、宗教が出てきて、昨日の友人を
明日には殺しちゃったりするのかな~と思いましたね。
後味は余りよくない映画ですが、歴史とか宗教に注目すればそれなりに面白い映画でした!