(民族的自尊心ばかり

異常に肥大化していて)

御都合主義(日和見主義)

というか、

特にこの国は

根源的な部分が

どこか非常におかしい。

 

先祖の「成仏」を祈りつつも、

その反面、

国民総出で

(集団的同調圧力を基盤とし)

「廃仏毀釈(明治期の蛮行)」を

平然と行う、ある意味、

世界的にも最も愚かな民族

〈自虐的オナニー民族〉

 

~参考~
〔1000年間の呪い/廃仏毀釈(特に明治期の蛮行)

~救世神仏を殺す日本民族に復興×⇒地獄へ突進〕

 

~参考~
日本の世相の特異的周期性/約30年ごとに目標達成

⇔破壊を周期的に繰り返す⇒それに翻弄される裁判所

 

 

 

 

~参考~
〔1000年間の呪い/廃仏毀釈(特に明治期の蛮行)を

全国的に敢行した民族に仏にすがる資格もなし〕

 

 

~参考~
〔「明治150年の驕慢を斬る:日本近現代史の本当の話」

/呪われた日本民族、自虐史観の必要性〕

~参考~
〔「仏を殺した呪われた日本民族」

神仏習合⇒神仏分離/廃仏毀釈(特に明治期の蛮行)〕

 

 

 

 

 

 

<明治期の神仏分離と廃仏毀釈>
大政奉還後に成立した新政府によって

慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた

太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、

および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された

詔書「大教宣布」などの政策

を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、

仏教施設の破壊などを指す。
日本政府の神仏分離令や大教宣布は

神道と仏教の分離が目的であり、

仏教排斥を意図したものではなかったが、

結果として

廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた

破壊活動を引き起こしてしまう。

神仏習合の廃止、

仏像の神体としての使用禁止、

神社から仏教的要素の払拭

などが行われた。

祭神の決定、

寺院の廃合、

僧侶の神職への転向、

仏像・仏具の破壊、

仏事の禁止

などが見られた。

1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で

寺社領上知令が布告され、

境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。
一向宗が強い三河や越前では

これらの処置に反発する一向一揆が見られたものの、

それを除けば、全体としては大きな反抗もなく、

わずか2、3年後の明治4年(1871年)頃には終息した。
大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、

1873年(明治6年)にほとんどが壊された。

奈良興福寺の食堂は

1875年(明治8年)に破壊される。

出羽三山については、

1874年(明治7年)以降に廃仏毀釈が始まる。
例えば

千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、

全ての仏像が破壊された。

現在は修復されているが、

羅漢像には破壊された傷跡が残っている。

また、

華族の墓地も

仏教方式から神道方式へと変更させられた。
伊勢国(三重県)では、

伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、

かつて神宮との関係が深かった慶光院など

100ヶ所以上が廃寺となった。

特に、神宮がある宇治山田(現伊勢市)は、

寺院の数が300近くから15近くにまで減らされている。

その為、

全国平均に較べて古い建物の数自体が少なくなっている。
明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。

一部の国学者主導のもと、

仏教は外来の宗教であるとして、

それまでさまざまな特権を持っていた

仏教勢力の財産や地位を剥奪した。

僧侶の下に置かれていた神官の一部には、

「廃仏毀釈」運動を起こし、

寺院を破壊し、

土地を接収する者もいた。

また、

僧侶の中には神官や兵士となる者や、

寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。

現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、

明治の廃仏毀釈の法難に遭い、

25円で売りに出され、薪にされようとしていた。

大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる

内山永久寺に至っては

破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。

安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、

「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も

廃され、赤間神宮となり現在に至る。

廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、

寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。

そのうちの3分の1は軍属となったため、

寺領から没収された財産や人員が

強兵に回されたと言われることもある。
美濃国(岐阜県)の苗木藩では、

明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、

領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、

藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、

現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。
一方、

尾張国(愛知県)では

津島神社の神宮寺であった宝寿院が、

仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している。
廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、

主に国学の普及の度合いの差による。

平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、

仏教の排斥につながった。

廃仏毀釈は、

神道を国教化する運動へと結びついてゆき、

神道を国家統合の基幹にしようとした

政府の動きと呼応して

国家神道の発端ともなった。
一方で、

廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、

江戸時代、幕府の間接統治のシステムとして

寺社奉行による寺請制度による寺院を通じた

民衆管理が法制化され、

権力から与えられた特権に安住した

仏教界の腐敗に対する民衆の反発によるものという一面もある。

藩政時代の特権を寺院が喪失したことによって

もたらされた仏教の危機は、

仏教界へ変革を促し、伝統仏教の近代化に結びついた。

尾鍋輝彦は、

近代国家形成期における国家と宗教の問題として、

同時期にドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクが行った

文化闘争との類似性を指摘している。
明治期の神仏分離政策後、

仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。

神仏分離が廃仏毀釈に至った原因は

地域・事例ごとにさまざまであるが、

廃仏思想を背景とするもののほか、

近世までの寺檀制度下における

寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、

地方官が寺院財産の収公を狙ってのことなど、

社会的・政治的理由も窺える。

日本政府は

廃仏毀釈などの行為に対して

「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、

神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではない

との注意を改めて喚起した。

 

 

〔日本人の心を守れ/岡倉天心~「廃仏毀釈」からの復興〕

 

参考

 

 

 

 

 

 

参考~『禅の名言』を誤解釈した側面も。