~参考~

〔「歴史の教訓に学ばない民族は、

結局は自滅の道を歩むしかない」林えいだい〕

 

   餓死or自殺or犯罪か?

救世主のいない特に極限状態の人間の醜さ

 

 

 

 

 

 

 

 

参考

浮浪児狩り

 

〔「駅の子」 生きるために闘い続けた戦争孤児〕
(2018年9月21日  NHK)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~参考~
〔満蒙開拓団「性接待」の碑文完成

(岐阜・白川町黒川[旧黒川村]佐久良太神社境内)〕

 

~参考~
〔「歴史の教訓に学ばない民族は、

結局は自滅の道を歩むしかない」林えいだい〕

 

「乙女の命と引き替えに 

団の自決を止める為 
若き娘の人柱 

捧ささげて守る開拓団……」

(犠牲になった女性の1人(2016年死亡)が作った詩の一節)

 

 

 

〔満蒙開拓団の女性たち「犠牲」の史実を後世に〕
(2018年11月18日 ANN)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
満州(現中国東北部)で終戦直後、
日本人開拓団の若い女性15人が団員の命を守るため、
ソ連軍将校への性接待を強いられた事実を後世に伝える碑文が
2018年11月18日、
岐阜県白川町黒川(旧黒川村)の
佐久良太(さくらだ)神社境内に設置された。
碑文には
「私たちの平穏で幸せな暮らしは、
貴女あなたたちの奪われた青春の犠牲の上に得られた」
と感謝の言葉が記され、
除幕式に出席した関係者は
「悲劇と平和の大切さを後世に語り継ぐ」と誓った。
旧黒川村などから入植した
黒川開拓団の遺族会(約130人)が設置した。
遺族会などによると、
旧黒川村は戦前、満州に分村を築く計画を立て、
農家600人余が1942~44年に開拓団として渡った。
 
 
現地でコメや野菜を栽培していたが、
終戦前後に侵攻してきた
ソ連兵や現地住民の略奪、暴行に遭った。
当時、働き手となる男性は「根こそぎ動員」で召集され、
残っていたのはお年寄りや女性、子どもだけだった。
近隣の開拓団は2百数十人が集団自決したが、
黒川開拓団の幹部は生きて帰国する道を選択。
近くに駐留するソ連軍将校に集落の警護と食糧支援を求め、
見返りとして若い未婚女性15人に性接待をさせた。
女性たちは1945年9~11月、過酷な試練に耐えたが、
うち4人は性病や発疹チフスのため死亡。
開拓団員451人は1946年、引き揚げ船で帰国できたが、
関係者は長い間、痛ましい過去に口を閉ざしてきた。
遺族会は1982年、亡くなった4人の慰霊のため、
「乙女の碑」(地蔵菩薩像)を佐久良太神社に建てた。
性接待については触れなかったが、
女性たちが近年、重い口を開いて証言するようになった
こともあり、
遺族会は「乙女の碑」近くに碑文を建てることを決めた。
ステンレス製の碑文
(縦1.2メートル、横1.68メートル)には
「乙女の命と引き替えに 団の自決を止める為 
若き娘の人柱 捧ささげて守る開拓団……」
と犠牲になった女性(2016年死亡)
が作った詩の一節なども書かれている。
遺族会によると、
女性たちの生存者4人は全員が90歳以上になっている。
その一人、岐阜県郡上市に住む女性(93)は除幕式に出席。
開拓団関係者らと手を取り合い、
「生きて日本に帰るんだと決めたんだよね」と語り合った。
碑文については
「これで歴史が正しく伝わってくれればうれしい」と話した。
遺族会会長の藤井宏之・白川町議(66)は除幕式で、
「悲劇を繰り返さないよう、平和の大切さを伝えていくことを誓う」
とあいさつした。
 

~参考~

〔「三光」(焼光、略光、殺光)~一般日本人が

(本来の)悪魔に豹変するとき/自虐史観の必要性〕

 

 *レイプが軍事正当化される異様な時代*

「理性」を完全に根絶し

野獣「本能」をむき出しにする戦争という脅威

 

*注意*冒頭のみ若干音声が途切れます。

 

 

 

 

 

 

 

福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にあった
厚生省引揚援護庁の医療施設。
ここでは、
レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に
堕胎手術や性病の治療を行った。
 
[開所に至る経緯]
終戦直後より在満・在朝日本人は
塗炭の苦しみを味わうことになった。
追放や財産の略奪に止まらず、
強制連行や虐殺などで、
祖国の地を踏むことなく
無念のうちに斃れた者も少なくなかった。
これに加えて女性は、
朝鮮人やソ連兵、中国人等による
度重なる強姦を受けた末、
心ならずも
妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、
何ら医療的治療が施されずにいた。
そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、
これを苦にして自殺する者が出た。
 
[移動医療局]
ソウルから釜山にかけての旅程にいる
引揚者の治療にあたるため、
移動医療局という組織が形成されていた。
これを手掛けたのは文化人類学者の泉靖一で、
のちの在外同胞援護会救療部も、
一部の資料によれば
泉が働きかけて資金援助をとりつけ作り上げたとされる。
移動医療局は、
釜山日本人世話会と共同で検診する女性を対象に
1945年12月より被害調査を行っていた。
1946年3月の調査では、
調査対象者885人のうち、
レイプ被害者70人、性病罹患患者19人、
約1割が性犯罪の被害に遭っている
という数字が示された。
 
[京城帝大グループ]
朝鮮に在留していた日本人を治療していた経験を持ち、
継続して今度は引揚者の治療にあたりたいと志願したのが、
旧京城帝国大学医学部医局員グループで、
外務省に働きかけて
省の外郭団体である在外同胞援護会の「救療部」
として活動を始めていた。

引揚船に船医を派遣したが、
搭乗者していた日本人の大多数は
朝鮮北部からの引揚者で、
特に婦女子の有様は凄惨であった。
なかには性的被害に遭った者、
なおかつ性病感染や妊娠させられた女性もおり、
彼女らに対しなんら救済措置も用意されていない次第を
博多引揚援護局に報告し、
被害者患者のための病院の設立を具申した。
提案は受け入れられ、
在外同胞援護会と引揚援護局の協力により、
1946年(昭和21年)3月25日に
「二日市保養所」が開設されることになった。

病院の開設や人員確保の経緯は以上の通りだが、
これとは別に、
医師たちがなぜ違法な中絶手術を恒常的に行う道に
踏み切れたのか、

そのきっかけとなったというエピソードも紹介される:
このグループの仲間の一員は、
朝鮮での元教え子に遭遇するが、
彼女は国民学校に赴任しており、
凌辱されたために妊娠して腹が大きくなっている
のが目立ってきた。
両親に歎願で中絶手術を決行したが、失敗し、
母子ともに死亡した。
 
[施設の概要]
二日市保養所は、
かつての愛国婦人会の保養所だったところである。
閑静な立地条件にあり、
温泉も湧き出ており療養には最適であった。
木造2階建てで、
上の階は14、 15室あり小さい部屋に分かれていた。
そして何よりも交通の便がよいが、
人目に触れにくい場所であることから選定された
(主要な引揚港であった博多港から直行した場合は、
当時の劣悪な交通事情下においても3時間内外で到着できた)。
 
[施設の職員]
以下の職員によって構成された。
医師2名 秦禎三、橋爪将(所長)
看護婦10名(うち3人は産婆資格あり)
事務職員3名(うち1名は事務長)
用務員4名

当時の看護師、吉田ハルヨ
はNHK「戦争証言アーカイブス」で
中絶手術について証言している。
 
[患者の収容]
当該女性に対して、
この施設の存在を
どのようにして広報するかが大きな問題であった。
内容が内容だけに、慎重な対処が求められた。
そこで採られたのが、
引揚船の医師を通じてのビラの配布であった。
そこには
「不法な暴力と脅迫で体に異常を感じつつある方は、
診療所へ収容し健全なる体にする」旨が記されていた。
婉曲的表現になっているのは
被害に遭った女性に対する配慮である。
また、すでに引揚が完了し
全国に散っていった女性に対しては、
有力紙に前述のビラと同様の
「本人にはわかるような」婉曲的表現の広告を出し、
施設の存在を知らせていた。

博多港では、
博多引揚援護局が、
博多検疫所および女子健康相談所を
1946年4月25日に設置し、
妊娠、違法妊娠、性病の検査・問診を行い、
選別された対象者を
国立福岡療養所や二日市保養所に送致していた。
当初は自己申告または一目で明らかな妊婦を検診していたが、
それではすべてを把握できないということで、
14歳以上すべての女性を検査する方針に変更になり、
そのために博多の現場には婦人検診室も設けられた。
国から違法な妊娠中絶の施術を強制された医師は
その不本意を述べている。
二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、
施設の開設から2か月間で
強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、

朝鮮28人、
ソ連8人、
支那6人、
米国3人、
台湾・フィリピン
が各1人だった。

1947年秋の施設閉鎖までに
約400~500件の堕胎手術をおこなったと推計される。
 
[患者の治療]
麻酔薬が不足していたため、
麻酔無しの堕胎手術が行われ、死者も少なからず出た。
 
[その後の二日市保養所]
二日市保養所は、優生保護法の施行にともない、
1947年(昭和22年)秋頃に閉鎖した。

同保養所の主務官庁である引揚援護庁は
1954年(昭和29年)まで存続した。
その後、同敷地に
済生会二日市病院が建てられた
(現在病院は南に200m程の場所に移転し、
跡地には
同じ済生会が運営する老人ホーム「むさし苑」が建てられた)。
なお、むさし苑の駐車場の隅には
二日市保養所跡の石碑が建てられている。
 
 
[二日市保養所以外の婦人患者の手術・治療]
上坪隆『水子の譜』には、
二日市保養所以外に

九州帝国大学医学部、国立福岡療養所、
九州高等医学専門学校が
特殊婦人患者の治療にあたったとある。

また同書によると、
佐世保港に上陸した
満鮮引揚特殊婦人入院患者に対しては
陸軍病院中原療養所が手術・治療にあたった。