~参考~

〔「明治150年の驕慢を斬る:日本近現代史の本当の話」

/呪われた日本民族、自虐史観の必要性〕

 

 

 

 

 

 

 

(インドネシア)バンカ島事件は、

第二次世界大戦中にカリマタ海峡のバンカ島で

1942年2月16日に発生した

日本軍による

60名ほどの

イギリス人とオーストラリア人の捕虜および民間人

そして

21名のオーストラリア人従軍看護婦を殺害した虐殺事件。

 

[経緯]

日本軍が包囲するシンガポールの陥落直前

1942年2月12日に

商船ヴァイナー・ブルック号がシンガポールを出港した。

船には

負傷兵と

64人のオーストラリア人従軍看護婦が搭乗していた。

出港三日後にヴァイナー・ブルック号は

バンカ海峡で日本軍の航空機により攻撃され撃沈された。

2人の看護婦が攻撃で死亡し、

9人の看護婦は救命筏に乗ったがその後行方不明となった。

22人の看護婦と負傷兵、

少数の子供と民間人が2隻の救命ボートに乗り込み

オランダ領東インドに属する

バンカ島のラジー海岸に上陸した。

上陸翌日に20人のイギリス軍兵士を含む

100人ほどの別の撃沈された船の乗客が合流した。

島がすでに日本軍により占領されていること

を知った彼らは

島の北西に位置するムントクに本部を置いていた

日本軍部隊に降伏することを決定し

ヴァイナー・ブルック号の船員一人を向かわせた。

前列右から2人目がドラモンド(1941年撮影)

 

士官が出発した後に

看護婦の最年長であった

アイリーン・メルビル・ドラモンドの指示で

民間人の女性と子供が中国人医師に率いられ

ムントクに向かった。

看護婦たちは負傷兵を介護するためにその場に残り、

赤十字が描かれたシェルターを仮設した。

午前中のうちに船員は

日本軍士官1人と15人の日本軍兵士とともに戻ってきた。

日本軍兵士は

歩行が可能な男たちを二組に分け、

100メートルほど離れた岬の向こう側に移動するよう命じた。

初めのグループは銃剣で、

2つ目のグループは銃撃で殺害された。

 

 

 

日本軍の士官は

22人の看護婦と1人の女性民間人に

海に入るように命じ、

その後腰まで浸かる位置にいた看護婦たちを

機関銃で銃撃した。

ヴィヴィアン・ブルウィンケルを除く全員が死亡した。

 

腹部を撃たれた

ブルウィンケルは波打ち際に打ち寄せられた。

彼女は日本軍部隊がその場を離れるまで

死んだふりをしていた。

彼女は

イギリス軍兵士のセシル・ジョージ・キングスレーと

12日間過ごした後に捕虜となった。

キングスレーは傷のために数日後に死亡した。

ヴァイナー・ブルック号に乗船していた

看護婦65人のうち24人が戦争を生き延びた。
ブルウィンケルは1947年に除隊し、

メルボルン郊外のフェアフィールド感染症病院の婦長となった。

のちにバンカ島の犠牲者のための基金を立ち上げ

後にオーストラリア看護大学の学長となった。

 

 

ヴィヴィアン・ブルウィンケル(1993年)

 

[東京裁判]

東京裁判でのブルウィンケル


東京裁判においてブルウィンケルは事件の証言をおこなったが、
実行部隊の特定ができなかったため
裁判で被告が裁かれることはなかった。

 

 

 

[強姦疑惑]
1990年代前半に
メルボルン大学の教員だった田中利幸 (歴史学者)が、
女性看護師たちが銃殺前に
日本兵に強姦された疑いがあると発表した。

2019年4月、

オーストラリアの女性作家たちの調査・検証により、

証言記録の一部が破棄され、

看護師の衣服が補修されていたこと

などが判明したと報道された。 

 

〔1942年に日本兵、

豪の看護師21人を銃殺する前に何を~真実追求の動き〕
(2019年4月22日 BBC)

 

 

 

 

 

 

 

 

~関連ドキュメンタリー~