特に組織&特定集団に属している人
ほど肌身で感ずる
日本社会で自己(正論)主張する際に
究極的には生存領域を侵害する程の
息苦しさを感ずる本質的核心的事項とは?
度が過ぎた「場(集団)の空気を読め」的
過剰な無言の集団的陰湿圧力
~参考~
〔閉鎖的日本民族/「臭い物に蓋をする」~
【武田邦彦 テレビじゃ言えないホントの話!】
(2019年2月14日)
絶対的「自由」(「ナルシスト」傾向)
⇔相対的「自由」(相対的価値観の基本)
*社会的「自我」の確立(共生&共存「(人権)平等」社会の本質)
⇔「自由の放棄(服従)」(自由からの逃走)
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自由からの逃走新版 (現代社会科学叢書) [ エーリッヒ・フロム ]
1,836円
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~参考~
~参考~
~参考~
特に自我の確立されていない人間(個人or大衆)に
無制限の自由を与えることによって、
一瞬の歯車の狂いによって
容易に「凶器or暴動等」(反社会的or反道徳的行為)
に変貌する。
従って、
最低限の社会的秩序(「他者の人権」の保護)のためにも
自由に対する社会的制約としての必要性は当然存する。
(近代市民社会の最低限のルール)
特に凶悪犯罪等も含め治安が不安定な今日のような
混沌とした世相においては
個々人の「自由」概念も迷走しやすく、
とりわけ
最低限の倫理&道徳さえ逸脱(暴走)する傾向が強い。
人は本質的に「自由」を求めつつも、反作用的に、
その本来的「自由」から逸脱(自由からの逃走」)し、
「社会的制約」(支配&服従)を潜在的に求めるという
相矛盾した中で暮らしているのである。
それだけ、
特に今日においては個々人が
「自由」の本質を再考すべき時代と言えるであろう。
真の「自由」を継続することは容易な事ではないのである。
また、「自由」を論ずる以前に、
自我の確立&社会的責任の覚悟
が絶対条件であることは言うまでもない。
自由からの逃走とは
エーリヒ・フロムによって著された
書籍の名称、および自由が与えられた
大衆の行く末に関する概念のことである。
[概説]
自由を2種類に分類している。
~からの自由と、~への自由という2種類。
~からの自由は
第一次的絆、
たとえば
親子関係で言えば子供を親と結び付けている絆や、
中世で言えば封建制社会など社会的な制度的な絆
などで、そこからの自由などを意味する。
~への自由は
個人が個人的な自我を喪失することなく
個人的な自我を確立していて、
思考や感情や感覚などの表現ができるような状態を意味する。