<「精神的開国」には程遠い

     超閉鎖的・自己保身型の日本民族>

~国政レベルはもとより、

      部分社会においても徹底した

             自己保身型「精神的鎖国主義」

(島国特有の閉鎖的&村社会的潜在的「隠蔽体質」)

⇒「臭い物には蓋をせよ!」

~国政レベルにおいても。部分社会においても。

今日の被曝事項もしかり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〔「破棄」のメモ、校内に存在 隠蔽は否定 神戸中3自殺〕
(2018年4月23日 朝日新聞)
神戸市垂水区で2016年10月に

市立中学3年の女子生徒(当時14)が自殺した問題で、

第三者委員会の調査報告書で

「破棄されていた」とされた他の生徒からの聞き取りメモが

校内に残っていたことがわかり、

久元喜造市長は23日、

「調査報告書への信頼を損ねかねないもので、

あってはならないことだ」などとするコメントを出した。
4月22日に記者会見した市教育委員会によると、

メモは女子生徒が亡くなった5日後、

心のケアが必要な生徒ら6人から教職員が話を聞き取り、

いじめの概要などを記したものだった。

当時の校長は

学校による調査の概要を市教委に伝えたが、

(市教委は)メモは「見つからなかった」と答えたという。

2017年8月、調査報告書を読んだ後任の校長から、

メモが校内にあることが市教委に報告されたが、

市教委はメモの現物を確認しなかった。

理由については

「第三者委が把握する内容と同じと判断した」という。
2018年3月に現校長が改めて市教委にメモの存在を報告し、

4月12日に現物を提出した。

後藤徹也・教育次長は

「隠蔽(いんぺい)の意図はなかった。

調査が不十分で、怠慢だと言われても仕方がない」と述べた。

市教委は

複数の弁護士による調査チームを立ち上げ、経緯を調べる。
女子生徒の遺族は

「真実を知りたいと願う遺族の気持ちを踏みにじるもので、

怒りを禁じ得ない」などとコメントしている。

 

PS

〔神戸中3女子自殺

/市教委、黒塗り外せる文書をHPで一時開示 個人情報流出か〕
(2018年5月1日  神戸新聞NEXT)

 

 「不条理社会」/止まらぬ負の世代間連鎖

参考

 

〔コンビニ店員に泣きながら「いじめられている」〕
(2018年3月27日 読売新聞)
埼玉県鶴ヶ島市で2017年11月、
市立小6年の女児(当時11歳)が
自宅2階から飛び降り自殺したとみられる問題で、
第三者委員会「いじめ問題調査審議会」
(会長・渡辺祐樹弁護士)は2018年3月27日、
「女児に対するいじめの事実があり、
いじめと死亡の関連性はあった」とする
調査報告書を浅子藤郎・市教育長に答申した。
報告書によると、
女児は5年生の2016年9月頃から
クラスの多数の児童に悪口を言われたり、
ばい菌扱いされたりするいじめを受け、
担任が児童らを指導。
6年生のクラス替えで沈静化したように見えたが、
同じクラスの女児2人から、
筆箱や定規を買わされたり、
カラオケの代金や飲食代を払わされたりしていたという。
亡くなる直前の2017年11月15日には、
女児2人のうち1人に「自殺したい」と告げると、
通話アプリ「LINE」で
自殺に追い込むようなやりとりがあった。
同日には
また、コンビニでお菓子などを買わされ、
店員に「いじめられている。意地悪をされている」
と泣きながら話したという。
 
~おぞましい「軽さ」…ネットで見つけた1985年の映像〕
(2018年3月22日 西日本新聞)
先日、無料動画サイトで恐ろしい映像を見つけた。
1985年放送のテレビ番組の録画。
お笑いコンビ「とんねるず」が司会を務め、
公募とみられる小学生(高学年?)100人が出演して、
「好きな遊び」をテーマにアンケート結果を紹介していた。
驚いたのは第3位。
何と「弱いものいじめ」だった。
子どもらは歓声を上げ、
調子に乗った男子がそばの友達を指さして
「俺、こいつをしょっちゅういじめてる」。
この年、私は中学3年。
いじめに対する当時の、
今思えばおぞましい「軽さ」は記憶にある。
中学生が「生き地獄」と書き残して自殺した
「葬式ごっこ」事件は
この翌年だ。
映像の子どもらは今、40代半ば。親になっている者も多かろう。
 

~大衆迎合(ポピュリズム)社会の恐ろしさ~

  個々の思想的ポリシーが完全欠落した

    『日和見主義』的日本民族に内在した悪魔の本質

 

  (陽)調和&全体主義(陰)迫害&差別&いじめ

 ⇒(多数派に対峙して)少数派にとって不条理社会の温床

       「絶対的正義」「相対的正義」

⇒(科学的、択一的思考[=絶対的]と対峙して)

世相的「価値観」[=相対的]というのは、

極めて移ろいやすい性質のもので、

「絶対的正義」を前提とした価値観

など存在しようもないことは明らか。

それにもかかわらず、

「絶対的正義」を前提にした価値観を

一方的に押し付ける行為は、

「迫害主義」を前提にした暴力行為に他ならない。

とりわけ、圧倒的多数派を前提とした少数派弾圧の

「大衆迎合(ポピュリズム)社会」(全体主義社会)も

悪魔思考の側面も兼ね備えていると言える。

これらの最大の要因は

個々の思想的ポリシーが

ほとんど確立されていない(ほぼ完全に欠落している)

ことに起因することは言うまでもない。

更に、究極的には「法治国家」における特に裁判官にしても、

特に時の権力or大衆迎合の「全体主義的」法の運用によっては、

悪魔に加担している側面も否定できないのである。

 

 

【異邦人(1968/伊仏)】

(アルベール・カミュ原作/ルキノ・ヴィスコンティ監督)

https://www.youtube.com/watch?v=Jc3oQ20ZoOA&t=34s

 

アルベール・カミュ(1913年11月7日 - 1960年1月4日)

カミュの著作は

「不条理」という概念によって特徴付けられている。

カミュの言う不条理とは、

明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる

不合理性のことであり、

そのような不条理な運命を

目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。

そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が

人々の間で連帯を生むとされる。

 

~参考≪ジャン=ポール・サルトル「実存主義とは何か」≫~

 

 

 

 

 

 

 

~参考~

〔「自分で考えることを放棄した人間は もはや人間ではない」 (ハンナ・アーレント)〕

 

 

<(いじめ&差別問題含む)

 全体主義(集団主義)下における
      人間(集団)悪の根源>
「思考したところで、
行動する力を与えられるわけでもない。」
(マルティン・ハイデッガー)
しかし、
「自分独自の思考を止めた時点で、
人は人でなくなる。」
(ハンナ・アーレント)
(⇒「全体主義」の歴史の渦に
    心身ともに容易に巻きこまれる。
但し、「全体主義」が常に悪側とは限らない。
特に、「理性」が著しく退化し、
「感情」に支配されたものは、
野生動物の「動物的本能」と同趣旨で、
もはや人ではなく、野獣そのものである。
[⇒「民主主義」(多数決原理)の理念(実質)
と乖離する集団論理の恐ろしさ])
 
価値「相対(多元化)主義」/「開放的」
   (異種「受容型」)
*少数派との摩擦&軋轢リスク:×
*多数派との摩擦&軋轢リスク:〇
⇒本物の「調和&友好&共存」ベクトル
⇒各自の「自由意思」に基づく
    
          価値「絶対(一元化)主義」/「閉鎖的」
              (異種「排他型」)
           *少数派との摩擦&軋轢リスク:〇
           *多数派との摩擦&軋轢リスク:×
          ⇒偽物の「調和&友好&共存」ベクトル
         ⇒各自の「自由意思」に基づかない
          (「意思」を暗黙的に強制される
           事実上の多数派支配の
            社会的&慣習的圧力下にある)
  
   
逆に言えば、
「自分独自の思考」を停止する方が
多数派を占めた時点で
「新たな全体主義」の萌芽が
生まれてしまうのである。
(⇒特に、没個性的な特別公務関係者[特に軍隊]に
全体主義の萌芽が生じやすい所以。)
 
参考
自分でものを考えることを放棄した人間は
もはや人間ではない
 
「"復讐"の果てにあるものは、
双方が滅亡するまでの
"報復の連鎖"以外のなにものでもない。」
⇒そこには、最低限(相手を)「赦す」という
人道的&倫理的&宗教的内心的規範の存在
も大きい。
「赦す」という行為は、終局的には、
神(「天地の摂理」)が人類に与えた
「共倒れによる滅亡を防ぐための
最後の歯止め」でもあるわけで。
神(「天地の摂理」)は、何時どこでも、
個々人の人間性を試されている。
復讐(動機)そのものを生じさせた
「偶発的・悲劇的事象」が、
神(「天地の摂理」)が与えた"試練"と
捉えるならば、復讐そのものも、終局的には、
神(「天地の摂理」)による超法規的・制裁に
全面的に委ね、
自然の成り行きを鳥瞰的に静観する姿勢も
極めて重要である。