~参考~
〔「歴史の教訓に学ばない民族は、

結局は自滅の道を歩むしかない」林えいだい〕

歴史は形を変えつつ繰り返される。

 

 

 

 

 

 

 

〔マクロン氏「悪魔が再び」 ナショナリズムに懸念〕
(2018年11月12日  日本経済新聞)

第1次世界大戦終結100年
の2018年11月11日午前、
フランスのマクロン大統領は記念式典で
古い悪魔が再度目覚めつつある
述べた。
世界で高まるナショナリズムの兆候に
強い懸念を示したものだ。
ドイツのメルケル首相や国連のグテレス事務総長も
同日、
世界は多国間主義に立ち返るべきだと呼びかけ、
孤立主義に逆戻りしかけている世界に警鐘を鳴らした。
式典は
マクロン氏が呼びかけ、パリ中心部の凱旋門で開かれた。
中間選挙を終え初の外遊となるトランプ米大統領、
ロシアのプーチン大統領、
日本の麻生太郎副総理兼財務相など
各国の首脳級70人以上が参加した。
マクロン氏は
第1次大戦の悲惨な被害に触れた後、
「大戦後に誰もが平和を誓ったが、
ナショナリズムや全体主義の高まりが
2度目の大戦を生んでしまった」
などと振り返った。
歴史は繰り返す時がある。
愛国主義は
ナショナリズムとは正反対の位置にあるものだ」とし、
欧州など一部でナショナリズムが高まる兆候がある
ことに危機感の共有を呼びかけた。
各国首脳は2018年11月11日午後、
引き続き開かれた
「パリ平和フォーラム」にも参加した。
メルケル氏は
「国際的な協力が疑問視されるようになり、
国家主義的な視野の狭い考え方が再び広がっている」
と危機感を表明した。
グテレス氏は
「貧困や不平等を解決するのは、
全ての人を巻き込んだ多国間主義だ」
と応じた。
今回の記念式典やフォーラムは
トランプ米政権が自国第一主義を主張し、
米欧の結束が揺らぐなかで実施された。
マクロン氏とメルケル氏は
2018年11月10日、
第1次大戦で休戦協定を結んだ
仏北部コンピエーニュの森で会合し、
和解と欧州の統合強化を確認した。

ただトランプ氏が

「欧州軍」構想を唱えたマクロン氏を

「非常に侮辱的だ」と2018年11月9日に批判するなど、

米欧のきしみは隠せない。

各国首脳が並んで式典会場となった

凱旋門まで歩いた列にも加わらず、

平和フォーラムにも欠席した

トランプ氏とプーチン氏との首脳会談も注目されたが、
ごく短時間の接触にとどまった。
米国による中距離核戦力(INF)廃棄条約の破棄表明などで
関係がぎくしゃくする両首脳の協議は、
2018年11月末にブエノスアイレスで開かれる
20カ国・地域(G20)首脳会議に持ち越された。

第1次世界大戦は

1918年に終戦となったが、

ドイツへの重い戦後賠償や米国の孤立主義への傾斜など

を背景に、世界は再び世界大戦への道を歩んだ。

現在のナショナリズムの広がりや米国第一主義が、

当時の状況と重なると懸念する声が広がっている。

 

~参考~

〔ナチスのスローガン叫びロックコンサートが中止に、

ドイツ東部〕
(2018年12月2日  AFP)

 

 

 

 

〔カラー第1次世界大戦 第1回 「人間性の喪失」〕
(2014年5月6日)

 

〔カラー第1次世界大戦 第2回「際限なき殺りく」〕
(2014年5月7日)

https://www.youtube.com/watch?v=GpxDen9WmG4&t=11s

 

〔カラー第1次世界大戦 第3回「総力戦の結末」〕
(2014年5月8日)

 

リメイク版【西部戦線異状なし(1979/英)】

 

参考

ドキュメンタリー【ソンムの戦い(1916/英)】

 

 

 

ソンムの戦いは、

第一次世界大戦における最大の会戦である。

1916年7月1日から同11月19日まで

フランス北部・ピカルディ地方を流れる

ソンム河畔の戦線において展開された。

連合国側のイギリス軍・フランス軍が

同盟国側のドイツ軍

に対する大攻勢として開始し、

最終的に両軍合わせて100万人以上の損害を出したが、

連合国軍はわずかな土地を獲得したにとどまり、

ドイツ側は後退を最少におさえた。

大戦初期のマルヌの戦いなどに比して

武器の消費量や性能も飛躍的に向上し、

軽機関銃も初登場した。

また当時新兵器であった戦車が

初めて投入された戦いでもある。 

 

〔<第一次世界大戦終結100年> 毒ガス弾 世紀超え汚染〕
(2018年11月26日 東京新聞)
フランスでは、
第一次世界大戦(1914~1918年)で使われなかった
毒ガス弾の処理場跡地で土壌汚染が明らかになりつつある。
大戦後、最大規模の集積所だった
ロレーヌ地方の小村ミュズレーは
2015年に耕作が禁じられ、
現在も仏北東部など5カ所で調査が進む。
戦争終結から100年たつが、大戦の“傷痕”は消えていない。
 
 
「草があまり生えず黒っぽい場所があるだろ。
危険だからと使用を禁止されたんだ」
ミュズレーの農家セドリック・セルベさん(41)が
畑の一角を指さした。
村には今も、砲弾の残骸や毒ガス成分を入れていたとみられる
ガラス瓶が転がる。
仏地質調査所(BRGM)は
2015年2月、
大戦後の土壌汚染を調べていた専門家の指摘で
村内の農家7軒の農地を調査。
高濃度のヒ素やダイオキシン、スズ、亜鉛が検出された。
セルベさんは管理する農地200ヘクタールのうち
40ヘクタールの使用を禁じられ、
肉用牛や子牛の殺処分を指示された。
再調査を経た今も、まだ7ヘクタールが使用禁止のままだ。
村内では他の5ヘクタールも使用が禁じられている。
問題の農地を2000年に借りたセルベさんは
「地下水位が低く農作物に異常が見つかったことはないが、
なぜ100年も汚染が放置されたのか。
国から何の説明もない」と憤る。
 
 
 
ミュズレーはベルギー国境から約30キロ。
大戦時は侵攻したドイツ軍が鉄道を敷き、
大型大砲でベルダンの仏軍要塞(ようさい)を狙った。
近くには毒ガス弾を含む大量の砲弾備蓄庫が置かれた。
元ミュズレー村長で歴史家の
ダニエル・イポリートさん(72)によると、
1918年の終戦後、
使われなかった大量の砲弾が
仏北部一帯やベルギーから集められた。
仏軍の関係資料には、
毒ガス弾だけで150万発、
通常弾は30万発
あったと記されている。
BRGMの研究者ダニエル・ユベさん(48)によると、
毒ガス弾は当初、仏軍が爆破処理したが、
軍の招集の解除後は、
設立された専門会社が処理を継続。
深さ3メートルの穴に毒ガス成分を埋めたり、
有毒な液体を容器にまとめて廃棄したりしていた
といい、
「汚染は、
爆破処理による飛散や穴への投棄が原因と考えられる」
と指摘する。
この専門会社は
1925年ごろに解散。
ロレーヌ地方は
第二次大戦でも再び独軍に占領され、
ミュズレーは
食料調達のため独軍のもとで農地が区画整理された。
戦争の混乱により、
処理場跡地の位置が正確に分からなくなり、
処理に関する資料も十分整理されなかった。
「住民は2度もドイツに占領された
忌まわしい記憶にふたをして、処理場を語り継がなかった。
土壌汚染の可能性も知らず、
これまで問題が表面化しなかった」
とイポリートさんは言う。
BRGMは
現在、仏北東部アルザスやロレーヌ地方のボージュ山脈内
など5カ所で調査を進めている。
ユベさんは
「少なくとも50カ所は類似の処理場があったとみられる」
と指摘し、こう強調する。
銃撃が終わっても、
戦争はけっして終わっていないんです