志醜くければ、その行き着く先もまた同じ。

~参考~
〔「おまえも死ぬぞ」(岐阜・郡上市の願蓮寺「掲示板」)

~「死は誰にも平等に訪れる」(住職)〕

 

「武士道」+「陽明学」「葉隠」

*一歩間違えれば、

テロリズム(特に「自爆テロ」)=負なる「自己犠牲」と紙一重

 

〔死の覚悟をきめた人は強い〕
(2015年6月1日  解決策の宝庫

~参考~

「腹を括る」
覚悟を決める。いかなる事態にもひるまないよう心を固める。
 ex「腹を括って難局に臨む」 

「背水の陣」
〔「史記淮陰侯伝」による。
漢の韓信が、川を背に陣立てし、

味方に必死の覚悟を固めさせて、
趙の軍勢を破った故事から〕

一歩もあとにはひけないせっぱ詰まった状況・立場。
また、そういう状況に身を置いて、必死の覚悟で事にあたること。
ex「 背水の陣で事に臨む」

 

 

 

 

 

 

 

『葉隠』(はがくれ)は、

江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。

肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、

それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。

葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。 

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、

常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。

後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」

の文言は有名である。

同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。

また、「隆信様、日峯(直茂)様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、

鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった

山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道

「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、

忠義は

山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなもの

ではなく、

行動の中に忠義が含まれているべきで、

行動しているときには

「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。

赤穂事件についても、

主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったことと、

浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。

何故なら、すぐに行動を起こさなければ、

吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。

その上で、

「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、

長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」

と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、

藩内でも禁書の扱いをうけたが、

徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。

それ故に、

佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを

「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、

同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。

明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、

評価されたが、

新渡戸稲造の説く武士道

とも大幅に異なっている

という菅野覚明の指摘がある。

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、

江戸期にあっては長く密伝の扱いで、

覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。

そのため原本はすでになく、

現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により

読むことが可能になったものである。

これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、

田代陣基が綴って完成したものといわれ、

あくまでも口伝による秘伝であったため、

覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。

2人の初対面は宝永7(1710年)、

常朝52歳、陣基33歳のことという。 

 

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、

葉隠の全体を理解せず、

ただ

とある目的のためには死を厭わないとすることを

武士道精神と解釈されてしまっている事が多い。

実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時に

この言葉が使われた事実もあり、

現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかしながら、そのような解釈は全くの見当違いである。

葉隠の真意は、

自己を中心とした利害に基づく判断からの行動は、

結局のところ誤った行動となってしまう。

そのため、

本当に最良の行動ができる心境とは、

自己を捨てたところ、

すなわち

自身が死んだ身であるという心境

からの判断であり、

そのような心境から得られる判断が、

自分も含めた全体にとって最良の結果を生む

というところにある。

 

 

 

戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は

『葉隠入門』を、

大衆文学の隆慶一郎は

『死ぬことと見つけたり』を出している。

両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来

本来「葉隠」とは
葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する
言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。

さらに、

西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、

また一説には

常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説

などがある。
葉とは「言の葉」言葉を意味するとも言われている。

 

参考

 


「武士道」の道徳体系

(日本人的美的感覚の極限イメージ)
「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、

下位の者に仁慈を以てし、

敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、

富貴よりも名誉を以て貴しとなす」

 

 

~参考~
〔陽明学「知行合一」=実践哲学

/特に幕末以降の道義的革命家(西郷隆盛等)の原動力〕

 

 

陽明学(ようめいがく)は、
中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、
孟子の性善説の系譜に連なる。
陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、
それ以前は王学といっていた。

形骸化した朱子学の批判から出発し、
時代に適応した実践倫理を説いた。

心即理」「知行合一」「致良知

の説を主要な思想とする。