「唯物思想」に洗脳されて

(「誰にも必ず平等に訪れる」)

「死」に対する畏怖&敬意を

忘れてしまった現代人。

「老」の問題もしかり。

自他の「生」を粗末にする世相の要因は何か。

「老」と「死」を正面から直視して初めて

人間は「生」の本質&尊さ、

そして「魂」の存在を知る事ができる。

 

 

〔「おまえも死ぬぞ」 響く金言、お寺の掲示板に熱視線〕
(2018年8月4日 朝日新聞)

短い言葉で仏教の教えや人生訓などを伝える
お寺の掲示板が各地で注目を集めている。
生や死への鋭い洞察にハッとしたり、
温かなメッセージに和んだり。
SNSでは、
お寺の掲示板を投稿してもらう
「輝け!お寺の掲示板大賞2018」も始まった。
お寺の掲示板に目を向けると、
思わぬ気づきがあるかもしれない。
おまえも死ぬぞ」。
岐阜県郡上市の願蓮(がんれん)寺に掲げられた言葉が、
ツイッター上で話題を呼んでいる。
旅行で訪れた京都市の中田絢子さん(36)は
「お寺の格言掲示板、
いつもハッとさせられるけど、
ここまで衝撃を受けたのは初めて」
としてツイート。
4万回以上リツイートされ、「いいね」も10万件を超えた。
コメント欄には「響く」「端的で真実」などの声が寄せられた。
中田さんは、
6月の大阪府北部を震源とする地震の揺れで
死を意識したという。
生も死も平等に存在し、どちらが特別ということではない
と教えてもらったように思います」
石神明住職(80)は
「人生の真実のあり方を端的に教えるのが仏教。
死をひとごとに思いがちだが、死は誰にも平等に訪れる。
そのことに目覚めることで、
命や生き方を見つめ直してもらえれば」
と話す。
一方、ツイッターやインスタグラムでも7月から、
「お寺の掲示板大賞」の公募が始まった。
ハッシュタグ「#お寺の掲示板大賞2018」で検索すると、
他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる
(東京・築地本願寺)、
私のわがまま当(あた)り前、他人のわがまま許せない
(愛知・西岸寺)
など各地のお寺の掲示板がアップされている。
大賞を企画した仏教伝道協会(東京)の江田智昭さん(42)は
「一般の人が仏教の教えに関心を持つ入り口になれば」
と言う。
お寺離れと言われるが、
協会が毎月開く初心者向けの講座には
毎回80人の募集が埋まり、
若い世代の参加も増え、
仏教の教えに関心を持つ人は少なくないとみる。

京都市下京区の仏光寺は、

半世紀前から門前に「今月の標語」を掲げる掲示板の「老舗」だ。

生きるヒントを日常の言葉で8行にまとめた掲示板は

「八行標語」と親しまれ、書籍化もされた。

 

 

 

吉田譲・宗務部長(50)は

「立ち止まってもらえるかが勝負。

流行語などを入れて時代性や意外性をもたせ、

言葉の語呂や流れにも気をつかう。

悩みを抱える人に響く言葉でありたい。

人間はどうしても

自分の考えが正しいと思い込んでしまうもので、

自らの立ち位置や世界が変わり、

新しい一歩を踏み出してもらえれば」

と話す。

 

~参考~
〔アコースティック哲学:『 死 』(武田邦彦・中部大学教授)〕

 

 

〔アコースティック哲学:『 死 』(武田邦彦・中部大学教授)〕

(2017年10月12日)

 

 

~参考~

〔 『 即身仏 』~(「ナルシズム」と対極をなす)究極の「自己犠牲」形態 〕

 

 ≪究極の「自己犠牲」形態≫

 ~(現世において生き仏になる)

     仏教における最も過酷な苦行~

  「即身仏」:「肉体」 > 「魂」

  ⇒「魂」と「肉体」との完全&永久融合化

    『融合』『分裂』

「即身成仏」:「肉体」 < 「魂」

⇒「肉体」を超越した「魂」の完全&永久純化

⇒歪んだ個人主義の混沌とした現代において

     彼らの究極の生き様に何を学ぶか?

 

 

 

 

 

「即身成仏」と「即身仏」との違い


「即身仏」と「即身成仏」は

同じく密教の思想に由来するもので、

現世において仏になることは同じだが、

即身仏は

「(死んだ人間が)ミイラとして、

物理的な身体が仏になる」という、

肉体的・物理的な意味合いが強い

のに対して、

(真言密教における)即身成仏は

「(生きた人間が)現世に存在しながら、

異次元の大日如来と結合して仏となる」

という意味であり、

現象学でいうところの「実在」と「現象」の結合が主眼で、

物理的な意味合いは薄い。
仏も我々も「実在」は同じで、

我々は本来悟りを開きうる存在であるため

(これを密教の用語では「本覚」という)、

「実在」(すなわち聖なる仏)と

「現象」(すなわち俗なる我々)

は合一されうる、

というのが「即身成仏」の思想の背景にある。

 
大乗仏教などの顕教が「三劫成仏」、
すなわち「三劫」と呼ばれるとても長い時間の修行の末に仏になれる
ことを説くのに対して、
密教においては「即身成仏」、
すなわちこの現世において瞬時に悟りを得て仏になれることを説く。
インドの中期密教において確立されたこの教えを初めて日本に持ち込んだのは、
延暦23年(804年)に遣唐使として唐朝に派遣された空海で、
『金剛頂経』などの経典からこれを学んだ空海は大同元年(807年)に帰国、
その思想の内容を『請来目録』に記して10月22日に朝廷に提出した。
その後、徳一などとの議論を経て、
真言密教における即身成仏は『即身成仏義』として理論化された。
『即身成仏義』における以下の詩文は、
真言密教における即身成仏の考え方を端的にあらわしたものとされる。
前半4行が「即身」、
後半4行が「成仏」
の説明である。
 
 
即身仏
 
密教系の日本仏教の一部では、
僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、
ミイラ化した物「即身仏」(そくしんぶつ)と呼ぶ。
仏教の修行の中でも最も過酷なものとして知られる。
この背景にあるのは
入定(“にゅうじょう”ないしは生入定)という観念で、
「入定ミイラ」とも言われる。
本来は悟りを開くことだが、
死を死ではなく永遠の生命の獲得とする考えである。
入定した者は肉体も永遠性を得るとされた。
日本においては
山形県の庄内地方などに分布し、
現在も寺で公開されているところもある。
また、中国では一部の禅宗寺院で、
今もなおミイラ化した高僧が祀られている。
木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ、
経を読んだり瞑想をする。
まず最も腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、
次に筋肉が糖として消費され、
皮下脂肪が落ちていき水分も少なくなる。
生きている間にミイラの状態に体を近づける。
生きたまま箱に入り
それを土中に埋めさせ読経をしながら入定した例もあった。
この場合、
節をぬいた竹で箱と地上を繋ぎ、
空気の確保と最低限の通信
(行者は読経をしながら鈴を鳴らす。
鈴が鳴らなくなった時が入定のときである)を行えるようにした。
行者は墓に入る前に漆の茶を飲み嘔吐することによって
体の水分を少なくしていたといわれている。
漆の茶にはまた、
腐敗の原因である体内の細菌の活動を抑える効果もあった
これらは死を前提にするため
当然ながら大変な苦行であり、
途中で断念したものも存在する。
湿潤で温暖な気候の日本では
有機体組織を腐敗から防ぐのは非常に困難を伴い、
死後腐敗してミイラになれなかったものも多い。
ミイラになれるかなれないかは
上記の主体的な努力によることと、
遺体の置かれた環境にも大きく影響するだけでなく、
関係者により確実に掘り出され、
保存の努力が成されるか否かにも左右される。
生入定においては
当人が死後に「即身仏」として安置されることを
望んでいない場合もあるが
(ミイラとならないケース、
すなわち補陀落渡海なども含まれる)、
望んでいた場合でも
死後の処理が遅れた、ないしは処理が不完全だったために
即身仏として現在安置されていないケースもある。
 
 
 
 ~森敦が描いた小説「月山」の舞台~
 
 
 
宝暦9年(1759年)山形・鶴岡市旧大宝寺村に生まれ、
川人足となった。
21歳で注連寺に入門し
仙人沢での木食修行を二千日行い、
木食行者として各地にて布教し
衰退した湯殿山信仰の復興、拡大に生涯をささげ、
文政12年12月8日の暁、71歳にて入滅されました。
 
即身仏とは、
湯殿行者が湯殿大権現(大日如来)と一体となる為に
自らの穢れを取り除き、
山草や木の実だけで命を繋ぐ木食行を行います。
そして苦行の後、衆生の苦しみを代行し救済を成し遂げ
三世の人々の幸福を祈り続ける生き仏です。  
山形県庄内地方を中心に
全国には十六体の即身仏が現存し
その多くの即身仏は注連寺に入門して
湯殿行者になられた注連寺系即身仏です。
湯殿信仰の布教と衆生救済の聖者として、
篤い信仰を集めた鉄門海上人の即身仏が安置され、
注連寺は即身仏の聖地とされています 。
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PS

 
 

「自明でないものは全て疑え。」

「あらゆる命題に関して、

その論理を見直せ。」

 (ルネ・デカルト)

 

 
N&S2010Mike006.jpg
 
「一切を疑うべし」という方法的懐疑により、
自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、
まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、
のように意識しているところの我だけは
その存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」
と疑っている自分自身の存在は否定できない。
―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が
自分が存在する証明である(我思う、故に我在り)、
とする命題である。
コギト命題といわれることもある

 

⇒究極的に言えば、各自の「存在」を前提にして

各自の「現世」は存するわけです。

これを突き詰めればナルシズムとも紙一重ですが、

「各自の魂」まで「現世の社会規範」に縛られる

必要性&必然性も存しないわけです。

人類共通としての「現世」の存在は別論としても、

各自の「存在」を抜きにして各自の「現世」はありえません。

せめて「各自の魂」くらいは完全解放するくらいの

心の余裕は欲しいものです。

それが、「かけがえのない唯一の人生」の真の趣旨。

それがリスク論の大前提ともなるわけですから。

 

また、それが真の意味での仏教上の『解脱』

という悟りの境地。

〔煩悩による繋縛から解き放たれて、

全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から

悟りの涅槃の世界へと脱出すること。〕

 
⇒客観的事象に、
(理不尽な)負の連鎖が生じ、
自助力ではどうしようもない状況に追い込まれた場合、
主観面にまで完全に浸透した「負の汚染」を
いったん主観的・自助力で、
精神的&肉体的&社会的束縛から解放するためにも、
白紙(リセット)の段階まで戻してみる[「無」の境地]。
それが、正の連鎖の発火点であり、
終局的には奇跡へ向けての道しるべとなる。
 
「深い谷ほどよく分かるのだ 
山の頂上がどんなに素晴らしいかを」
(映画【ニクソン (1995)】)
 
「知識の光は
思想家を消耗させる。
真の天才は
心を解き放てるのだ。」
(「ゲーテの日記」)