~実相への道程~

   イエスが奇跡を起こしたのではなく、

        自分自身の心が奇跡を起こしたのである。

 

 

 

山上の垂訓とは、

新約聖書内

マタイによる福音書第五章から七章と

ルカによる福音書第六章にある、

イエスが山の上で弟子たちと群集に語った教えのこと。

山上の説教とも。

 

~マタイ伝からの引用~
マタイ 5:1 ~ マタイ 5:20

 

イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、

弟子たちがみもとに近寄ってきた。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

 

こころの貧しい人たちは、さいわいである

天国は彼らのものである。


悲しんでいる人たちは、さいわいである

彼らは慰められるであろう。


柔和な人たちは、さいわいである

彼らは地を受けつぐであろう。


義に飢えかわいている人たちは、さいわいである

彼らは飽き足りるようになるであろう。


あわれみ深い人たちは、さいわいである

彼らはあわれみを受けるであろう。


心の清い人たちは、さいわいである

彼らは神を見るであろう。


平和をつくり出す人たちは、さいわいである

彼らは神の子と呼ばれるであろう。


義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである

天国は彼らのものである。


わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、

あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、

あなたがたは、さいわいである。

喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。

あなたがたより前の預言者たちも、

同じように迫害されたのである。


あなたがたは、地の塩である。

もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。

もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。

むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、

そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、

天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。

廃するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。

天地が滅び行くまでは、

律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、

またそうするように人に教えたりする者は、

天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。

しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
わたしは言っておく。

あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、

決して天国に、はいることはできない。

 
~ルカ伝からの引用~
ルカ 6:20 ~ ルカ 6:38
 
そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、
 
あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
神の国はあなたがたのものである。

あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。
飽き足りるようになるからである。

あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。
笑うようになるからである。

人々があなたがたを憎むとき、
また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、
汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
その日には喜びおどれ。
見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。
彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

しかし
 
あなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。
慰めを受けてしまっているからである。

あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。
飢えるようになるからである。

あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。
悲しみ泣くようになるからである。

人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。
彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
 
しかし、聞いているあなたがたに言う。
 
敵を愛し、憎む者に親切にせよ。

のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。

あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、
あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。

あなたに求める者には与えてやり、
あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。

人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、
人々にもそのとおりにせよ。

自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。
罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。
罪人でさえ、それくらいの事はしている。
また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。
罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
 
しかし、あなたがたは、
 
敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。
そうすれば受ける報いは大きく、
あなたがたはいと高き者の子となるであろう。
いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、
なさけ深いからである。

あなたがたの父なる神が慈悲深いように、
あなたがたも慈悲深い者となれ。
 
人をさばくな。
そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。
 
また
人を罪に定めるな。
そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。
 
ゆるしてやれ。
そうすれば、自分もゆるされるであろう。

与えよ。
そうすれば、自分にも与えられるであろう。
人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、
あなたがたのふところに入れてくれるであろう。
あなたがたの量るその量りで、
自分にも量りかえされるであろうから」。

 

 

新約聖書の舞台パレスチナとイエスの足跡

 

【古代史の潮流~世界史の変革(原書房)】(謝世輝著)

 

〔歴史学者は奇跡にどう対処すべきか?〕

従来、多くの歴史書はわざと奇跡を避けて叙述を進めていく。

その理由は、歴史学が人文科学の一分野であり、

科学的に叙述すべきだという要請(圧力)があるからである。

これは近代合理主義の精神からくるものである。

しかし、一例ではあるが、

近代合理主義全盛の1960年代においてさえ、

著名な歴史学者である弓削達氏は

『ローマ帝国とキリスト教』〔河出書房発行「世界の歴史」全集⑤〕

のなかで、イエスの奇跡について多くの記述をしているのである。

ましてや、近代合理主義が音をたてて崩壊し、

奇跡や非合理現象がたえず放映される今日、

歴史学者がわざと奇跡を避けて著述するのは、

かえって事実を覆い隠すものである。

何よりも奇跡の事実なくして

キリスト教とイスラム教は成立しなかったのであるから、

奇跡の叙述をしないのは、

かえって真実の歴史から逃避するものである。

 

〔イエスのメシア宣言〕

西暦元年、イエスは

エルサレムの北方のガリラヤ(ベツレヘム説も)に生まれ、

30歳の頃から、荒野で断食と祈祷の生活をなしていたが、

西暦29年の春、エルサレムを訪れたときから、

彼の行動が注目されるようになった。

西暦29年の晩秋、

イエスはエルサレムからガリラヤヘ帰る途中、

サマリアを通過したとき、彼は自分の使命感にもとづき、

旧約聖書の中の

『イザヤ書(第61章)』にある次の言葉を宣言した。

 

「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

 

〔多くの奇跡が民衆を吸引した。〕

西暦30年の晩秋から翌年西暦31年にかけて、

イエスの活動が急速に拡大し、注目された。

イエスは

「時は満ちた。天の国は近づいた。

悔い改めて福音を信じなさい。」と述べたが、

その権威を証明するかのように、イエスは多くの重病人を治した。

例えば、イエスは中風の者に向って次のように言った。

「中風の人に『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい。』

と言われた。

その人は起き上がり、家に帰って行った。

群衆はこれを見て恐ろしくなり、

人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した。」

と『マタイの福音書』に記されている。

らい病の患者は即座に潔められて治った。

盲者は即座に眼をひらいて見えた。

また、久しく床で寝ていた患者が寝床をとりかたづけ、

群衆の前に姿を現わした。

特に、イエスは

ガリラヤ地方の見下げられた(いわゆる卑しい)人々に

接触し、ガリラヤ人を助けた。

そのため、

ローマの支配下で重い税を取り立てられ、

貧しく苦しい生活をしていた多くのユダヤ人が

イエスのまわりに集まった。

増えていく弟子の中から、

イエスは特に「十二使徒」を選出して直弟子となした。

12人のうち、ペトロを除く11人は

すべてガリラヤ地方の人(いわゆる卑しい人)であった。

 

〔政府(最高法院)の怒りをかう。〕

イエスの活動に対して、いわゆる大議会側は、

イエスの行なった多くの奇跡は悪魔の仕業であり、

妖術であると解釈した。なぜだろうか?

一例であるが、

イエスが中風の患者を治したとき、

イエスは「あなたの罪は赦される」「床を担ぎ、家に帰りなさい。」

と命じた。

だが、ユダヤ人の考えでは、

病気は神にそむいた罪の結果であり、

人間の罪を許すことのできるのは神ひとりのみである。

従って、イエスの言葉は涜神である。

また、イエスはユダヤの安息日にある病人に対して

「床を担いで帰れ」と言ったが、ユダヤ人の律法によれば、

安息日に床をあげることは禁じられている。

この点からもイエスは涜神とみなされた。

多くの点において、イエスの行動は神にそむくものとみなされ、

ユダヤの律法では許せないものであった。

 

〔イエス・キリストの奇跡についての解釈〕

『新約聖書』にはイエス・キリストの奇跡について、

34の例が挙げられている。

おそらく実際には、

もっと多くの奇跡が起こったのであろう。

このうち病気が奇跡的に治ったことについてだけ、

簡単に説明しておこう。

医者がサジを投げた瀕死の病人(末期のガン患者 等)が

本人の必死の祈りや、霊能力者を媒介として、

難病が奇跡的に治った例は、

多くの国でいつも起きていることであり、

日本でもおそらく毎日のようにどこかで起きていることだろう。

このような現象をどう解釈すればよいのであろうか?

イエス・キリストの場合について述べるなら、

イエスは病人が苦しんでいるのは人間の仮想であり、

病人の実在とは認めなかった。

その代わりに、全能の神の力が働けば、

必ずすぐに治るものと信じていた。

治される患者もイエスの奇跡を信じていた。

信仰心が極度に達したとき、全能の神の力が作用して

病気が短時間に治るのである。

仏教哲学の言葉で述べるなら、

実相の巨大な力が流入すれば、病気が治るのである。

しかし、そのような強い信仰心をうることは

もちろん容易なことではないのである。

従って、周辺で見聞する奇跡は、たいがい即座ではなく、

若干の時間をかけて難病が治っていく例が多い。

 

 

「(理不尽な)苦しみに遭った時問うべきは、

"なぜ?"ではなく、"如何に生きるべきか?"」

 

 

ヨブは苦しみを与えられ、命以外の全てを奪われる。

それでも、ヨブは信仰を捨てず、神に救われた。

 ⇒人生のあらゆる不条理(宿命)を素直に受け入れ

神の与えた試練に信仰によって立ち向かうか、

人生に絶望し神を呪うか?

 

【 ヨブ物語 】(旧約聖書の中の教訓書)

~神は、特に人類に対し、

飴(あめ)と鞭(むち)によって翻弄(ほんろう)させることにより

己(神)に対する忠誠的調和心(真の信仰心)を試される。

 
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」
(ヨブ記1章21節)
 
 
 

「自明でないものは全て疑え。」

「あらゆる命題に関して、

その論理を見直せ。」

 (ルネ・デカルト)

 

 
N&S2010Mike006.jpg
 
「一切を疑うべし」という方法的懐疑により、
自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、
まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、
のように意識しているところの我だけは
その存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」
と疑っている自分自身の存在は否定できない。
―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が
自分が存在する証明である(我思う、故に我在り)、
とする命題である。
コギト命題といわれることもある

 

⇒究極的に言えば、各自の「存在」を前提にして

各自の「現世」は存するわけです。

これを突き詰めればナルシズムとも紙一重ですが、

「各自の魂」まで「現世の社会規範」に縛られる

必要性&必然性も存しないわけです。

人類共通としての「現世」の存在は別論としても、

各自の「存在」を抜きにして各自の「現世」はありえません。

せめて「各自の魂」くらいは完全解放するくらいの

心の余裕は欲しいものです。

それが、「かけがえのない唯一の人生」の真の趣旨。

それがリスク論の大前提ともなるわけですから。

 

また、それが真の意味での仏教上の『解脱』

という悟りの境地。

〔煩悩による繋縛から解き放たれて、

全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から

悟りの涅槃の世界へと脱出すること。〕

 
⇒客観的事象に、
(理不尽な)負の連鎖が生じ、
自助力ではどうしようもない状況に追い込まれた場合、
主観面にまで完全に浸透した「負の汚染」を
いったん主観的・自助力で、
精神的&肉体的&社会的束縛から解放するためにも、
白紙(リセット)の段階まで戻してみる[「無」の境地]。
それが、正の連鎖の発火点であり、
終局的には奇跡へ向けての道しるべとなる。
 
「深い谷ほどよく分かるのだ 
山の頂上がどんなに素晴らしいかを」
(映画【ニクソン (1995)】)
 
「知識の光は
思想家を消耗させる。
真の天才は
心を解き放てるのだ。」
(「ゲーテの日記」)