佃収先生講義2ー1(物部麁鹿火王権) | 事代主のブログ

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九州年号

「襲国偽僣考」鶴峯 戊辰著に「九州年号」が書かれている。

 

九州年号とは

「倭王武」が日本で初めて使用したとされる年号で最初の年号は「善記」である。

 

「善記」襲の元年 継体天皇十六年壬寅 梁の普通三年にあたる。(中略)善記四年に終わる。「襲国偽僣考」

 

本来雄略の年号「善記」の後は清寧~以武烈まで元号が続くはずだが「善記」のあとは「正和」以後「定和」「常色」と平行して物部麁鹿火王一族の「殷倒」「僧聴」「明要」の年号が存在する(図1)

 

これは継体の時代に捌の政権があったと考えるべきである。

 

物部麁鹿火王権

物部麁鹿火は筑紫国造磐井と御井郡(福岡県三井郡)で戦い勝利した つまり下剋上である。

 

「果たして疆場を定める」とある。「長門(山口県)より以東」は継体天皇の領土になり「筑紫より以西は物部麁鹿火の領土になった。」               「日本書紀」

 

磐井の乱は「継体二一年(527年)物部麁鹿火に討たせたとあるが、継体天皇の父は倭王興の命により「熊本県宇土地方」から近江(滋賀)の派遣された「倭王権」の将軍とあるので継体が物部麁鹿火を派遣して磐井を討ったというのは捏造である。

 

継体天皇の崩御は丁未(527年)でその後九州年号「殷倒」に続く これが物部麁鹿火王権の年号である。

 

物部麁鹿火の地位は「大連」とあるので倭王権では地位は低かったと考えられる。

 

物部麁鹿火の本拠地

磐井の子 葛子は「糟屋の屯倉を献じ、死罪を逃れた。」とあるので物部麁鹿火の本拠地は福岡県東区の多々良川の南側 

 

物部木蓮子は「難波屯倉と宅媛を献上した。」とあるので多々良川の北側

 

以下のことから嘉穂郡は本拠地であったと考えられる。

 

物部麁鹿火の墓

桂川王塚古墳が時代も合い物部麁鹿火の墓であったと考えられる。

 

 

 
 
 

 

王塚古墳

前方後円墳

全長約86m、高さ約9.5m

装飾古墳、馬具・武器・銅鏡・装飾品・土器類

6世紀中頃

 

仏教伝来
「元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳」

「大倭国の仏法(ほとけののり)」からこの時代に伝来したと考えられる。
「斯帰嶋宮(しきしまのみや)の天下を治(をさ)めたまひし天国案春岐広庭(あまくにおしはるきひろには)の天皇(すめらみこと)の御世(みよ)自(よ)り創(はじ)む。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのおほまちきみいなめのすくね)が仕奉(つかへまつ)りし時、
天下を治めたまへる七年(ななとせ)、歳次戊午(つちのえうま)〔538〕十二月(しはす)に度(わた)り来たりて、
百済国(くたらのくに)の聖明王(せいめいわう)の時、
太子(たいし)の像(みかた)と并(ならびに)灌仏(かむぶつの、ほとけをすすぐ)器(うつはもの)一具(ひとそろへ)及び説仏起書(せつぶつきしよ、ほとけのおこりをとけるふみ)の巻(まき)一筐(ひとはこ)度(わた)りき。」

 

ここにある「治天下七年歳次戌牛十二月」とは538年のことで仏教伝来は物部麁鹿火時代のことと考えられる。

 

物部麁鹿火王権は三代で阿毎王権に政権を譲ったと考えられる。