古代西海道(九州)での肥後国の税の比率は26%で全国2位 陸奥国(出羽国を除いた東北のほとんどの地域)の次に多い税を納めていた国であったそうです。
モニュメント
鞠智城のことが書かれている最古の文献は『続日本紀』で、文武天皇二年(六九八)五月二十五日条に、「大宰府に命じて、大野・基肄・鞠智の三城を修理させた」と記されています。当時の日本は、友好国であった百済を復興する為に朝鮮半島に派兵を行いましたが、六六三年に唐と新羅の連合軍に敗れました (白村江の会戦) 。日本は朝鮮半島から兵を引き上げ、防衛の必要に迫られる様になりました。天智三年(六六四)、日本は西海防備をはじめていきます。ところが不思議な事に、『日本書記』には水城、大野城、基肄城の築城については書かれているのですが、鞠智城の事は書かれていないのです。つまり、鞠智城は六九八年には修理の為にあった事は間違いないのですが、いつ造られたのかは不明なのです。
歴史ジャーナリスト
菊池 秀夫より抜粋
八角桜塔
ここで鞠智城(きくちじょう)の呼び名ですが「きくち」と書かれていますが『続日本紀』によると「くくち」と読んだそうです。
現在この辺りは菊池と呼ばれますが、菊池の「菊」というのは植物の菊を表すのみで他の意味は無いそうです。
この菊は平安時代に中国から輸入されたもので「菊」という漢字も平安時代以前には無かったことになりますので、完全に音(おん)から漢字を当てたということになります。
すると「きくち」は本来「くくち」と読むのが正解ということになるのではないでしょうか?
例として怡土は伊都 松浦は末盧というように
「くくち」というと似た言葉が古代中国の書に記載があるのを御存知の方も多いはずです。
「魏志倭人伝」の邪馬台国の敵国狗奴国の記述
これらの国々の南に狗奴国が有り、男子を王とし、高官に狗古智卑狗(く |
この記述にある狗奴国が球磨国であり狗古智卑狗(く
こちひこ)が鞠智彦(くくちひこ)のことであるとするなら、その北に邪馬台国があるはずです。
更に「随書」にはアメノタリシヒコの記載で
「邪靡堆(やまと)に都す。即ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」
つまりアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ場所であるとあります。
この2つをと合わせるとその地域は限定されます。
ではここから北というと
「随書」にはアメノタリシヒコの次世代 白村江の戦い時代の斉明天皇 中大兄皇子の宮(橘の広庭)や木の丸御殿(恵蘇八幡宮)があったと云われる場所で、蘇我氏の親衛隊 東漢氏(大蔵氏)がいた地域 現在の朝倉・うきは・日田の地域ということになるようです。
この地域は大野城・基肄城 水城で博多湾を塞ぎ、神籠石で囲まれた地のようです。
日本初の時計(水時計)のオブジェ
ちなみに菊池氏は本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族となっていますが、個人的には先祖は狗古智卑狗(くこちひこ)であろうと思っています。
もしかしたら両方正解かもしれませんが(;^_^A
また菊池氏の元の家紋 日足紋(旭日紋) 太陽を象った旗を大和朝廷が用いるようになったのは、645年(大化元年)の大化の改新以後、天皇による親政が確立された頃と云われています。
狗古智卑狗(くこちひこ)が鞠智彦(きくちひこ)なら狗奴国の男王、卑弥弓呼は阿蘇氏しか考えられませんね!