歴史の教科書で吉備真備といえば帰国子女のエリートで高潔な印象が強く、藤原広嗣は陰湿な悪役の印象がありますが、肥前唐津ではその評価は逆のようです。
吉備真備
藤原広嗣
二の鳥居
御由緒
佐賀県唐津市浜玉町五反田219
大村神社
祭神 藤原広嗣朝臣
由緒
藤原広嗣公は、聖武天皇(奈良時代)の天平十二年十月十五日(七四〇年)逝去。
御連枝八男のうち三柱を当地に祭る。公は、大職冠藤原鎌足の孫式部卿宇合(うまかい)の長子で、聖武天皇の母君と光明皇后は叔母にあたる。
一門の繁栄は類ないほどであったが、痘瘡の蔓延により衰退し、政務の中心は、唐から帰国した、僧玄坊と吉備真備に移った。天平八年公が大養徳の守に任ぜられると玄坊、吉備の讒言により、太宰少弐として筑紫に退けられる。
その後は万民を酷使と重税に苦しめる悪政が続けられていた。公は、これを上表し二奸を退けるを乞う。
ニ奸は「広嗣反乱す」とし、大野東人をして、討伐に向けた。公は、板櫃川(北九州市)に退陣するが「勅はある」を聞き「朝に敵するに非ず、ニ奸を退けるを乞うのみ」として海外に逃れんとするが、荒天の為大村に漂着し、斬せられた。
公の死後、天変地変、悪疫が続き「広嗣の霊のなすところといわれ、玄昉を筑前の観世寺に弔わしめるも、まもなく死去、ついで真備も筑紫守に左遷されるが、不祥事が続く為、肥前守に移された。
真備は、天平勝宝四年、当地に無怨寺を建立し、厚くその霊を慰めたといわれる。
その後無怨寺大明神として崇敬を集めていたが、明治の神仏分離により大村神社と改称した。
以下略・・・
これによると吉備真備と玄昉は、まるで極悪人のように書かれています。
同じ唐津の鏡神社でも藤原広嗣は、祀られており 民衆から支持されていたようです。
鏡神社二の宮
由緒書によると
藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝2年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備により、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。広嗣処刑の後、玄昉が筑紫に左遷されそこで歿したことから、これは広嗣の怨霊のせいであるとされ、それを慰めるためであった。
境内を見てみましょう。
手水舎
狛犬
拝殿
本殿
愛宕山と書いてあります。
由緒書きによるとこの神社は吉備真備が罪滅ぼしの為に無怨寺を建立したものが、この大村神社になったとあります。
吉備真備と共にニ奸臣と云われた玄昉も、確かに観世音寺に眠っています。
観世音寺玄昉の墓
大村神社 鏡神社共に吉備真備が肥前守の時に、怨霊を恐れて広嗣を祀ったそうです。
その後の記録を見ると吉備真備は、弓削道鏡の下で中納言となり、同年藤原真楯の薨逝に伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執ったそうです。
地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみだそうです。