八女古墳群で最後を飾るのは

 

童男山古墳

福岡県八女市山内

一号墳

童男山古墳群でも最高所にある1号墳直径48mの大型円墳で、築造年代は六世紀後半だそうです。

 

六世紀後半というと「記紀」では、聖徳太子が摂政になった時代のものということになります。

直径48m・高さ約6mの円墳。
埋葬施設は南西に開口する複室構造の横穴式石室で、羨道部が失われているが、全長約18mと推定されている。玄室奥壁に沿って石屋形が設けられ、内部には刳抜き式の石棺が置かれているほか、側壁に接する形で石棺が残っている。石室は江戸時代には既に開口しており、遺物等は見つかっていない。6世紀後半の築造。
県指定史跡、1956(昭和31)年指定。           古墳マップより

八女市教育委員会の案内板より

「今から二千年以上も大昔,中国が秦という名の頃,始皇帝という人が家来の徐福に「いつまでも若さと元気を保つ不老長寿の薬を探し求めてこい」と命じました。命を受けた徐福は自国の秦の国内はおろか支那海を渡り,九州の今の有明海より私達の郷土,この川崎まで薬を求めてやってきました。しかし徐福は,寒い冬空のもと,つかれはててとうとう病にたおれ,地城の人々の手厚い看護もむなしく病死してしまいました。私達の祖先の人々は,この見も知らぬ他国の人を,やさしく,温かく,ていねいにはほうむってあげました。そして徐福のやすらかなねむりを念じ,煙が絶えないように火をたき続けてきたと伝えられています。これが「童男山ふすべ」の由来です。以来地域の人々は,このうるわしい伝統を受け継ぎ毎年一月二十日に童男山ふすべを行ってまいりました。現在では川崎小学校の児意に受け継がれ,祖先の人々の国境を越えた温かい人人間愛を象徴する大事な行事として続けられています。 平成元年二月」

 

古墳の石室の入口

中は赤く着色されて、徐福像?が飾られています。

上部には穴が

この辺は、27基からなる古墳群が形成されています。

築造は六世紀後半で、もちろん徐福の墓ではないでしょうが、徐福に係わる一族の墓である可能性は否定できません。

 

「磐井の乱」は、「日本書紀」には叛乱と明示されているが、「筑紫国風土記」では、大和朝廷側が突然攻め込んできたと記されているそうです。

 

この童男山古墳は、岩船伝説の残る室山熊野神社につながる路にあり、熊(神)渡山の名前の由来も、この一族の移動か徐福たちの移動が伝承になったのかもしれません。

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