平家の落人の伝説は、各地に残っていますが、ここは名前や匿った人まで明確になっています。

唐原 落人の里

        

平安時代の末、栄華を極めた平家の勢いにも陰りが見えはじめ、
源氏によって都を追われた平家の人々は、各地に逃れ人里離れた所に隠れ住みました。
寿永3年(1184)、木曽義仲により京を追われた平重盛(たいらのしげもり:平清盛の嫡男。清盛の後継者として期待されながらも、42歳の若さで病死)の内室は二人の姫を連れ、郎党や侍女と供に太宰小弐であった怡土城主・原田種直(妻は重盛の養女)を頼って落ち延びてきました。
種直は領内の山深い集落・唐原に一行をかくまいましたが、
一年ほど経った頃、源氏の落人狩りの手はこの地にまで及び、二人の姫は無惨にも殺害されてしまいました。
これを知った内室は、生きる希望を失い、自ら命を断ったということです。

落ちてきた人は、「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれな忠ならず。重盛の進退ここに谷(きわ)まれり」の台詞が有名な平重盛の室とその娘達

     

頼られたのは原田種直

原田 種直は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。父は大宰大監原田種雄、妻は平重盛の養女。 原田氏は天慶の乱鎮圧に活躍した大蔵春実の子孫、大蔵氏の嫡流。代々大宰府の現地任用官最高位の大宰大監・少監を世襲する。WIKI

更に補足するなら、あの日田の東漢氏を祖とする大蔵氏の末裔です。

ここには、重盛の遺髪を埋めたとされる

黒髪塚

        

娘千姫と福姫が京をしのんだと云われる

都見石
     



熊野神社跡

        

千姫と福姫が遊んだ千寿の瀧

        

娘二人が殺され命を絶った室と娘の墓

        

前の墓石が千姫と福姫のもののようです。

        

室と娘達は、いつか都に帰れる日を夢みていたことが感じられる場所です。

     

私をはじめ東の人間は、どうしても鎌倉に近いせいか源氏贔屓になりがちですが、西では平家に関する資料が多く残っていますね!