三世紀に記された魏志倭人伝(ぎしわじんでん)において「其地無牛馬虎豹羊鵲。」牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
と記されていますが、では馬は何時伝わったのでしょうか?
四世紀と思われる神功皇后の対馬での伝承に対馬の豊玉町の千尋藻(ちろも)の地名は、皇后が馬糧の代わりに海藻を馬に食させたことに由来。
と有ります。
対州馬
多分この時代前後だと思われますが、日本で初めて馬が渡ったと伝わる島が有ります。
その島はイカで有名な呼子から出港します。
出港して間もなく小川島と武寧王の生誕地 加唐島が見えてきました。
馬渡島です。
「日本の地名の意外な由来」(PHP文庫 日本博学倶楽部著)では『馬渡島という地名は大陸からはじめて馬が渡ってきたのがこの島だったので「馬渡る島」と命名されたということに由来しているといわれているが、いかにも大陸との関係が深い島らしい地名だ。実際この島は、中世から近世にかけて馬の放牧場として使われ、江戸時代には唐津藩の軍馬の放牧場だった。
だが、異説もある。源義家の甥にあたる中近江馬渡の庄・本馬八郎義俊が、白河上皇院政の時代に、延暦寺僧兵の強訴を防ぎ、冤罪でこの島に流され着いたことから、それまでの「斑島」を「馬渡島」に改めたというのだ。』と書かれています。
島自体は、4,5キロほどの島です。
神社はここ住吉神社のみです。
この神社の本当の名前は、馬渡神社のようです。
祭りは近いのでしょうか?
本殿です。
住吉神社と呼ばれていますが 八幡神社 八剱神社 住吉神社 熊野神社 大山津見神社の五社を合わせたもののようです。
由緒
旧馬渡神社には馬渡島の領主だったいう本馬義俊公を祭っていて八剣神社といっていましたが、島内の五つの神社を合祀して現在の馬渡島神社(住吉神社)となっています。
神社の宝として義俊公の八大龍王の剣が残されているそうです。
ここは古代末慮国と記されていた地区ではないかと思われます。
本来この辺りは、松浦と呼ばれていたようですが、魏の国の人は似た音が無い為 、松浦を末慮国と記載したのではないでしょうか?
末慮国は、元々は大山津見の国であったようですが、神功皇后以降 住吉 八幡に信仰を替えられたようです。
この島のもう一つの信仰が
馬渡島カトリック教会
馬渡島は呼子から船で約40分程の玄界灘に浮かぶ孤島で、面積は4平方キロメートル強、長径約5km程の島である。人目は千人たらずで約半数がキリシタンである。この島の最初の信者は文久2年(1861)に外海地方から安住の地を求めて移住した人達であり、ここでも慶応3年(1867)頃に4人の信者が唐津の牢に投獄されたことがあると言う。
集落は島の東半分に片寄っており、港を中心とした南部に主として漁業に従事する仏教徒の人達が住み、北部の丘陵地に主として畑作に精を出すキリシタンの集落が散在している。
明治12年(1879)11月26日公布の「長崎県外国人遊歩規定改定」により神父達の行動が自由になると、外国人神父による布教活動が活発化し、明治13年8月には島に於ける最初の洗礼の記録がある。翌明治14年には、紐差を根拠地として馬渡島をも担当していたペルー神父がこの島の聖堂建設に着手し、明治14年(1881)11月5日に聖堂が完成してプチジャン司教の祝別を受けている(★1)。この聖堂が後の昭和4年に呼子の地に移築再建された現行の呼子教会堂建物の前身であるとの説もあるが、これについては異論もあり未だ解明されていない。いずれにしても昭和4年に馬渡島にあった教会堂建物を呼子に移し、馬渡島へは平戸島から旧紐差教会堂の建物を移築再建した事実があり、それが現在の馬渡島教会堂である。
馬渡島の漁港
神道とカトリックの島を見守るのは、今は恵比寿様のようです。
と記されていますが、では馬は何時伝わったのでしょうか?
四世紀と思われる神功皇后の対馬での伝承に対馬の豊玉町の千尋藻(ちろも)の地名は、皇后が馬糧の代わりに海藻を馬に食させたことに由来。
と有ります。
対州馬
多分この時代前後だと思われますが、日本で初めて馬が渡ったと伝わる島が有ります。
その島はイカで有名な呼子から出港します。
出港して間もなく小川島と武寧王の生誕地 加唐島が見えてきました。
馬渡島です。
「日本の地名の意外な由来」(PHP文庫 日本博学倶楽部著)では『馬渡島という地名は大陸からはじめて馬が渡ってきたのがこの島だったので「馬渡る島」と命名されたということに由来しているといわれているが、いかにも大陸との関係が深い島らしい地名だ。実際この島は、中世から近世にかけて馬の放牧場として使われ、江戸時代には唐津藩の軍馬の放牧場だった。
だが、異説もある。源義家の甥にあたる中近江馬渡の庄・本馬八郎義俊が、白河上皇院政の時代に、延暦寺僧兵の強訴を防ぎ、冤罪でこの島に流され着いたことから、それまでの「斑島」を「馬渡島」に改めたというのだ。』と書かれています。
島自体は、4,5キロほどの島です。
神社はここ住吉神社のみです。
この神社の本当の名前は、馬渡神社のようです。
祭りは近いのでしょうか?
本殿です。
住吉神社と呼ばれていますが 八幡神社 八剱神社 住吉神社 熊野神社 大山津見神社の五社を合わせたもののようです。
由緒
旧馬渡神社には馬渡島の領主だったいう本馬義俊公を祭っていて八剣神社といっていましたが、島内の五つの神社を合祀して現在の馬渡島神社(住吉神社)となっています。
神社の宝として義俊公の八大龍王の剣が残されているそうです。
ここは古代末慮国と記されていた地区ではないかと思われます。
本来この辺りは、松浦と呼ばれていたようですが、魏の国の人は似た音が無い為 、松浦を末慮国と記載したのではないでしょうか?
末慮国は、元々は大山津見の国であったようですが、神功皇后以降 住吉 八幡に信仰を替えられたようです。
この島のもう一つの信仰が
馬渡島カトリック教会
馬渡島は呼子から船で約40分程の玄界灘に浮かぶ孤島で、面積は4平方キロメートル強、長径約5km程の島である。人目は千人たらずで約半数がキリシタンである。この島の最初の信者は文久2年(1861)に外海地方から安住の地を求めて移住した人達であり、ここでも慶応3年(1867)頃に4人の信者が唐津の牢に投獄されたことがあると言う。
集落は島の東半分に片寄っており、港を中心とした南部に主として漁業に従事する仏教徒の人達が住み、北部の丘陵地に主として畑作に精を出すキリシタンの集落が散在している。
明治12年(1879)11月26日公布の「長崎県外国人遊歩規定改定」により神父達の行動が自由になると、外国人神父による布教活動が活発化し、明治13年8月には島に於ける最初の洗礼の記録がある。翌明治14年には、紐差を根拠地として馬渡島をも担当していたペルー神父がこの島の聖堂建設に着手し、明治14年(1881)11月5日に聖堂が完成してプチジャン司教の祝別を受けている(★1)。この聖堂が後の昭和4年に呼子の地に移築再建された現行の呼子教会堂建物の前身であるとの説もあるが、これについては異論もあり未だ解明されていない。いずれにしても昭和4年に馬渡島にあった教会堂建物を呼子に移し、馬渡島へは平戸島から旧紐差教会堂の建物を移築再建した事実があり、それが現在の馬渡島教会堂である。
馬渡島の漁港
神道とカトリックの島を見守るのは、今は恵比寿様のようです。