大善寺玉垂宮にほぼ隣接している所に藤大臣に係りがあると思われる古墳があります。

        

権現塚古墳
-----(現地案内板より)

水を湛えた二重の周濠(しゅうごう)をめぐらせる権現塚は当地方を代表する古墳の一つです。
墓域(ぼいき)を示すと思われる外側の浅い溝を含むと直径は150mをこえ、宮崎県にある西都原古墳群の男狭穂塚古墳(径167m)に次ぐ九州第二位の大円墳となり、主墳丘(しゅふんきゅう)の径は55m、高さ8mの規模をもっています。
江戸時代終わりの有名な久留米藩の学者である矢野一貞(やのかずさだ)が著した「筑後将士軍談(ちくごしょうしぐんだん)」にも、詳しい記述がみられます。
内部主体は未調査で不明ですが、昭和47・60年度の発掘調査によって内堤(第一堤)には円筒埴輪が並んでいることが確認されています。
その他に形象埴輪・須恵器(すえき)。土師器(はじき)などが出土しています。
なかでも大正6年の古墳修理の際出土した武人埴輪の頭部と側面のみ人物埴輪は市指定文化財になっています。
須恵器のなかには、朝鮮半島で焼かれたと考えられる新羅系のものが含まれているものも注目されます。
隣接する御塚古墳と同様に、「日本書紀」に名の見えるこの地方の古代豪族である「水沼君(みぬまのきみ)」一族の墓と考えられています。
古墳は5世紀末~6世紀前半に造られたものでしょう。

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権現塚古墳は、大きすぎてその全貌を写すのに距離がかなり必要です

        

周囲には、二重の濠があり水をたたえています。

     


二重の濠の一か所から古墳に入ることができます。

時代は、五~六世紀のもので倭の五王の時代のものと思われます

この古墳の出土品は、新羅のものが含まれているようです
つまり磐井の前から水沼氏は、新羅と交易があったものと想像されます。
「記紀」では、磐井が朝廷に黙って新羅と交易したことが理由とされていますが、それ以前から水沼氏は、
新羅と交易があったということになります。

その隣ですが

御塚古墳

        

外観は前方部が短く平坦なため、その形状から帆立貝式前方後円墳とも呼ばれるものである。築造時期は5世紀頃と推定されている。弘化5年(1848年)に測量を行った久留米藩の学者矢野一貞の写生図では、3重の堀で囲み直径が130メートル程あったことが分かる。
この古墳は権現塚古墳より前のもので五世紀初頭 仁徳天皇時代 まさに藤大臣の時代と重なるようです。

この古墳から見ると大善寺玉垂宮は、丁度拝殿となるようです。

先日藤大臣の水沼氏について説明しましたが、正確には初代安曇磯良の家に住吉大神の三男が婿に入り、その家系が物部氏と縁組し、さらに景行天皇の息子を婿に向かえた家系が高良玉垂命の家系ということになるようです。

疑問なのは「高良玉垂神秘書」に記されている夫婦になったはずの神功皇后ですが、その痕跡が見つからない点でしょうか?

     


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