まず麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)の母とされる大中姫ですが

彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)または大江王は、古墳時代の皇族。景行天皇の皇子で、母は伊那毘若郎女(稚武彦命の女)。真若王という同母兄がいる。『古事記』では、母は迦具漏比売とされる。しかし、彼女は大江王の異母兄日本武尊の曾孫に当たり、景行天皇は直系の卑属を娶ったことになる上、景行天皇が長寿であれば一応理論上は不可能ではないものの年齢的にかなり無理がある(現に、『日本書紀』では応神天皇の妃となっているし、『古事記』でも彼の名前の重複が認められる)ことから誤記と思われる。異母妹の銀王(しろがねのみこ)を娶り大中姫(甥の仲哀天皇妃)等を儲けたということになるようです。

次に応神天皇を排除しようとした麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)ですが
「日本書紀」によると、仲哀天皇と神功皇后が新羅征伐の途中、仲哀天皇が崩御、神功皇后もまた途中で皇子を出産、のちの応神天皇です。
このことを聞いた、忍熊王とかかご坂王は、謀反をくわだてます。
かご坂王は途中猪に襲われ死亡。忍熊王は、兵庫県播磨に陣をはり皇后軍を迎えうち、さらにさがって
宇治に陣を張りましたが、武内宿禰の罠によって弓と矢を失い、逃げ場を失い瀬田川に身を投じ、その遺体は数日後に菟道河から発見されたという。

この二人を祀る神社というのは、そう多く有りません。

忍熊八幡宮内
奈良市押熊町287
香坂王子・忍熊王子 旧蹟地

   

 『記紀』によると、本来の大和の王になるべきはこの王子達であったはずだが、西から攻め上がってきた武内宿禰と息長帯日売の軍の前に自滅してしまい、誉田別命が応神天皇として即位することになる。

この兄弟のうち忍熊王ですが、実は福井県に神社があり、それによると

劔神社(つるぎじんじゃ)別名織田明神(おたみょうじん)
福井県丹生郡越前町織田


     

祭神
素盞嗚尊

     
     忍熊王の夢枕に立つ素戔嗚

由緒
劔神社の創祀は悠久の昔、遥か北に仰ぐ座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、〝劔大神〟と称えてきたことに始まります。
神功皇后摂政の頃に第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を治めることができたことを謝び、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いできたことを社記は伝えています。
奈良時代より祈願の霊場と尊ばれ、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受けてきました。現在所蔵する国宝の梵鐘は、第四十九代光仁天皇の御奉納といわれています。
中世以降は、朝倉氏を始め武将の崇敬も厚く、特に織田信長公は氏神と崇めて、格別の信仰をもって神領を寄進するなど、神社を保護しました。
江戸時代の末には、伏見宮家の御祈願所と定められ、拝殿の御寄進をいただき厚い尊崇をうけて今日に至っています。越前国二の宮として一の宮の氣比神宮と共に、福井県民はもとより県外の方々からも篤い信仰を受けている神社です。

釼神社と織田信長公
当社の鎮座地である越前町織田は、織田信長公の祖先の故郷です。越前町織田荘の荘官として、また越前国二の宮劔神社の神官として神社に仕えてきた由緒ある家柄でした。
応永年間(1394~1427)、神官の子に常昌という立派な人物がいましたが、時の越前の守護斯波氏にその才能を見出され、家臣として取り立てられて、尾張の国に派遣されました。苗字は故郷の地名をとって織田を名乗るようになりました。
織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、守護代を勤めるまでになりました。信長公の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に雄飛するまでになりました。
信長公は戦国の乱世にあっても、劔神社を氏神として深く尊崇し、武運を祈ると共に、多くの神領を寄進し社殿を造立するなど、劔神社の保護と治安に尽くしています。
天正十年(1582)、信長公は本能寺の変であえない最期を遂げ、天下統一の夢は消えましたが、織田の人々は信長公の功績と威徳を偲び、御霊を境内の小松建勲神社に合祀しました。
ちなみに織田氏の家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」ですが、当社の神紋も同じ紋章であり、昔から深いつながりがあることを示しています。
釼神社ホームページより

この伝承によると忍熊王は、どうも素戔嗚の末裔で福井では尊敬されていたようです。

そして織田信長は、この神社を氏神と決めていたと有ります。

余談ですが、織田信長と伊達正宗は神武天皇に滅ぼされた長脛彦の末裔を名乗っており、どうもこの忍熊王も同族であったような形跡が有ります。

大中姫が仲哀天皇の妃は不明であったかは不明ですが、神功皇后とは天日鉾(素戔嗚)を祖とする同族であったということは事実のようです。

      

     
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