仲哀天皇の記録を簡単に上げると

元年(328年後半) 天皇の異母弟である蒲見別王を殺害。

2年(329年前半) 気長足姫尊を皇后とされた。これより先に大中媛との間に香坂皇子・忍熊皇子を生んだ。
 2月6日、敦賀に笥飯宮を立てて住んだ。その月に淡路屯倉を定めた。
3月15日、天皇は南海道を巡幸した。そのとき皇后を留めて、紀伊国に徳勒津宮に行った。このとき熊襲が叛いたので、天皇はそこで熊襲を討とうとして、船で穴門(山口県)に行った。その日使いを敦賀に送り、皇后に穴門に来るように伝えた。
6月10日、天皇は豊浦津(山口県豊浦)に泊まられた。皇后は敦賀から出発して、渟田門(福井県)に至り、船上で食事をされた。
7月5日、皇后は豊浦津に泊った。
9月、 宮室を穴門にたてて住んだ。これを穴門豊浦宮という。

その穴門豊浦宮と言われるのが 高杉晋作が奇兵隊を発足した幕末馬関と言われた長府に存在します

       

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)
山口県下関市長府宮の内町1-18

   

本殿 第一殿:仲哀天皇、第二殿:神功皇后、第三殿:応神天皇

若宮社:仁徳天皇
高良社:地主大神・武内宿禰
八坂神社:素戔男尊をはじめ42柱(神社合祀のため)
荒熊稲荷神社:宇迦之御魂神・宗像三女神
惣社宮:天神地祇
守宮司神社:応神天皇

      

由緒
「古事記」「日本書紀」等の書物によれば、九州の熊襲平定のため西下された仲哀天皇と
神功皇后は、本州の西端で九州を真向こうに見据える要衝のこの地に8年正月まで
ご滞在になり、斎宮をたて神祇を祭られたのが忌宮の起りとされております。

のち聖武天皇の神亀5年(728)、信託によって筑前香椎宮より神功皇后の神霊を勧請して
中殿に奉斎し、相殿として仲哀天皇、応神天皇をお祀したと伝えられております。

またの社伝によれば、9年2月に香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は
武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にあり、
天皇の神霊を鎮守した御社を行宮にちなんで豊浦宮と称し、くだって聖武天皇の
御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称する
三殿別立の神社でございましたが、中世の火災により豊浦宮、豊明宮が焼失し、
忌宮に合祀したと伝えられております。 忌宮神社ホームページより

一の鳥居をくぐるとまず目に飛び込んでくるのは

     

仲哀7年(198)7月7日 仲哀天皇が豊浦宮に滞在していた時に、熊襲(くまそ)の扇動により、新羅の軍が攻めてきました。
 新羅軍の首領塵輪は、雲に乗って空を飛び、空から矢を放って皇軍を苦しめ、宮守護の阿部高麿と弟の助麿が戦死してしまいました。

 それを聞いた仲哀天皇は激怒し、自ら弓と矢を取って、塵輪に放ちました。
 矢は見事 塵輪に命中し、地に落ちて息絶えました。

 首領を失った新羅軍は総崩れとなって逃げて行き、皇軍は勝利の歓声を上げて、塵輪輪の死体の周りを、刀や矛を振りかざしながら踊り回りました。

 死んだ塵輪の顔は鬼のようであったため、その首を埋めて大石で封印し、鬼石と名づけられました。

 そして仲哀天皇没後、神功皇后の朝鮮出兵の出陣、凱旋のさいに、この鬼石の周りで勇壮な舞伎を行ったというのが、起源とされています。

鬼石というそうです

   

更に本殿の脇には宿禰の銀杏というそうです

      

さああいよいよ本殿です

   

末社です

      

八坂神社ですね

      

この時点では まだ仲哀天皇は生きて小碓皇子が征伐した熊襲が襲ってきたと有ります。
この戦いで宮守護の阿部高麿と弟の助麿が戦死したとあります。

この二人については また後でふれたいとおもいます。