先日の続きから書かせて頂きます。

景行天皇のルートを「記紀」通りに地図に落とすと

   

距離にして1770km 徒歩では355時間その間700m級の山1 400m級2 200m~300m級4を1ヶ月半以上の物資を抱えて歩かねばならず

その間戦闘をしながら征伐したとしても略奪をしなければ行幸などあの織田信長ですらやったことのない事を古代の大王が行ったとは 到底信じられません。

しかし出発点と終着点を日田と考えると

   

距離にして972km徒歩では194時間その間470m級1 300m級 1 160m級 1であり宮崎で行宮を作ったとすると一番遠方でも大分県の隣宮崎県であり距離にして50~100㎞前後ということになり物資は
1週間~1ヶ月以内で可能ということになります。


もう1つ行幸ルートを見て頂くと阿蘇と薩摩は外しており行幸の必要の無いエリアでは無かったのではないかと思われます。

佐賀 長崎方面は 景行天皇自身では無く 息子の小碓皇子が受け持っていたようです。

次回から 息子の小碓皇子の伝承に移っていきたいと思います。