本日は 宇佐八幡宮の祖宮と言われる薦神社(大貞八幡宮)を御紹介します。

大分県中津市大字大貞209

薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、別名大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称される。境内の三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記すこともある)を内宮、神殿を外宮とする。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(834-848年)の創建と伝える古社である。

祭神
本殿 - 応神天皇(八幡大神)、比咩大神(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)
八坂社(祇園社) - 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
若宮社 - 応神天皇皇子
比咩大神とは宗像三女神のことで、沖津宮(沖ノ島)の田心比売命(たごりひめのみこと)、中津宮(福岡県大島)の瑞津比売命(たぎつひめのみこと)、辺津宮(へつみや)(同県宗像市田島)の市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を示す。この三女神は『日本書紀』巻第1神代上第6段一書第3の条によると、「則ち日神の生れまする三の女神を以ては、葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す」とあり、最初は宇佐の地に降り立ったことを示している。

社紋
一つ巴。元来、巴紋は水に由来する紋で、宝器の勾玉、魂、命に関連する。宇佐神宮の三つ巴に対して、一つ巴であることから、宇佐の祖宮の一つと考えられている薦神社は、本来は宗像三比売大神ではなく、別の、あるいはその中の一人の比売大神(たとえば中津宮の湍津姫神)を祀っていたのではないかという説もある。

   

由緒
薦神社は大貞八幡宮とも称され、霊池である三角(御澄)池を内宮、社殿を外宮と仰ぐ由緒正しい八幡の古社であります。ご社殿の造営は承和年中(834~48)と伝えられていますが、歴史は遙かに溯り、八幡大神顕現にかかわる上古以来の歴史を刻むものであります。
八幡の由緒を記した『八幡宇佐宮御託宣集』によれば薦神社は古くから八幡神と深いかかわりがありました。
養老4年(720)反乱を起こした日向・大隈の隼人に対し、中央政府の征討軍は八幡神を奉じて鎮圧に向かいます。この時、神輿には三角池に自生する真薦で造った枕型の御験(神を表すもの)が乗せられていたのであります。
この後も薦枕は八幡神の御験として永く用いられます。薦枕は6年毎に新しく造られ、八幡神とかかわりの深い八ヶ社(田笛社・鷹居社・瀬社・泉社・乙咩社・大根川社・妻垣社・小山田社)を巡った後に、宇佐宮本殿に納められます。古い御験は下宮に、さらに下宮の古い御験は国東東海岸の奈多宮に納められ、海に流されました。
この八幡神御験の薦枕造替にかかわる一連の神事が宇佐宮の特殊神事といわれる行幸会であります。
このように真薦の自生する三角池は『託宣集』が「豊前国下毛郡野仲の勝境の林間の宝池は大菩薩御修行の昔、涌き出でしむる水なり」と記述しているように、八幡神にとって切っても切れない極めて重要な霊池でありました。
往時の広大な森林は今はほとんど失われてしまいましたが、八幡神のご神徳により、内宮と称えられる境内の御池は今なお千数百年来の神秘をたたえ、一隅に真薦の自生がみられます。
かつて社殿とともにあった神宮寺の七堂伽藍は、大友の兵火により悉く焼亡したと伝えますが、元和2年(1616)細川忠興公が宇佐行幸会を復興した際に、薦神社の神門等を造営して崇敬して後、小笠原氏、奥平氏と領主は代わっても、薦神社に対する篤い信仰は変わらず、今日の薦神社の元が築かれたのであります。

見事な参道です

   

途中に摂社が有りました伊勢宮です 一つ巴ですね
何故かこの写真だけ沢山のオーブらしきものが写っていました


      
      

すばらしい山門です

      

外宮です菊花会が開かれていました

      

いよいよ内宮です

    
      

この神社の内宮はこの池です

    

すこし池の廻りを歩くと

      

神様のあしあとだそうです

呉橋というそうです

    

薦神社は 現在でこそ祭神が多いですが 元々は比売大神一人だけを祭る神社であったそうです
さらに驚くことにここ薦神社の宮司は 代々丹後の元伊勢と言われる籠神社と同じ海部氏だそうです。

そして宇佐神宮の【行幸会(ぎょうこうえ)】にはこの三角池の薦が使用されるそうです
薦と籠どちら編んだものという共通点もあります。

実は 元伊勢の元伊勢は ここであったかもしれませんね。