いささかセンセーショナルなタイトルだが、


キモは、


仏教における輪廻転生についてちと考えてみたいということだ。



輪廻転生の思想は釈迦以前にもあったわけだが、


釈迦が、この一見不合理な思想を旧弊として廃棄せずに


自身の思想の中に取り入れたのかは、たいへん興味があるし、


仏教の本質をとらまえるには、是非に考えねばならぬことだろう。



仏典には


釈迦が悟りを開いて仏になるまでの、輪廻転生する過程、前世を描いた


「本生経」(ジャータカ)というものがある。


法隆寺の玉虫厨子に描かれていることでも有名だ。


いろは歌の元ネタとされる羅刹と童子の話とか


餓えた虎の親子に自分の体を与える話とかだ。


厨子の写真は学生のころ見たが、


虎の子どもが


釈迦(の前世の王子)の腹から腸を引きずり出しているところがあったりして


なかなかエグイなと思った。


(今回、ジャータカの抄集を読んでみたが、これだけでなくエグイのが多い。


で、たいてい耳にし、目にするのは


こういう自己犠牲とかの「立派な」エピソードなので、


釈迦の前世譚というのは、


釈迦を神格化するために作られたものだろう程度に考えていた。



でも、ジャータカの他のエピソードを読んでいるうちに、


いやいや、そう単純なものではないぞということがわかってきた。



そのうちの一つが表題にしたエピソードだ。



あるとき、釈迦の足に棘が刺さった。


これについて、釈迦は前世の因縁を語り始めた。



その生において釈迦は貿易商人であった。


彼は、一人の仲間とともにそれぞれの船で交易に出た。


品物を積んで帰る途中、


仲間の船は積み荷を欲張ったらしく、積載量オーバーで沈み始めたのである。


彼は仲間に手を差し伸べ、自分の船に乗せてやった。


その仲間は沈みゆく自分の船を見て思った。


なんで俺がこんな目に遭わねばならないんだ。


俺の積み荷は海の底、


対するに奴は積み荷を無事持ち帰って大儲けする。


チクショー!!!!!!


奴だけに儲けさせてなるか!!!


そう思った仲間は、自分の杖で船底を突き始めた。


「止めたまえ!もろともに沈んでしまうぞ!」


釈迦(の前世)は止めるが、血迷った仲間はドンドンと穴を開けつづけた。


仕方なく釈迦は帯びた剣を抜くと、仲間を突き殺した。



わしの足に棘が刺さったのは、その因縁なのじゃ。


そう釈迦は言うのである。



釈迦が前世で殺生をしていたとは、なかなかショッキングである。


ここには、私が考えていたような釈迦の神格化の意図はない。



このエピソードにおいて、釈迦に過失はまったくない。


仲間を殺害したのも典型的な正当防衛である。


でも、殺生は殺生なのだ。


だから、足に棘が刺さった。と釈迦は言う。



ここでよくよく考えねばならないのは、


後に悟りを開いてゴータマ・ブッダとなる釈迦でさえ、


条件が揃うと殺人をせざるをえないことになってしまうということだ。


(ここらへんは親鸞の思想に直結してくるが。)



こうした釈迦にとってはいささか不利な輪廻転生譚を語ることで、


仏教は、俺は決して罪など犯さぬ、という傲慢を戒めているように思える。



人間は、善くも悪くも、いろいろな可能性を有している。


そう考えてはじめて慈悲の心も生まれてこようというものだろう。


人を赦したり、讃えたりできるようになるのである。


無論、虎の子のエピソードのように、


他を思って身を捧げるという「立派な」生き方も可能なわけだ。


そうした、一つの寓話として輪廻が語られているのであろう、


というのが一点。



それから、本来はこちらが本筋であろうが、


仏教においては「生まれ変わり」はいいことではない。


一般に、何回も生きられるのだからラッキー、


ということになるのだろうが(その発想の典型が江原啓之)


仏教においては「一切皆苦」なので、


これを延々と繰り返すことはとんでもない悲惨事なのだ。


(その延長線上に「地獄」がある。)


これはまあ浅学の私ごときが得々と書くことではなかろうので、


その道の書を読んでいただいたほうがよろしいが。



ジャータカは説話としてもおもしろい。


(ああ、あれはこれのパクリかというのも少なくない。


例えば、代わりにお前の肉を秤に、


という『ヴェニスの商人』のエピソードは


尸毘王の話から着想を得たのではなかろうか。)


興味のある方は、筑摩書房から出ている『原始仏典』を参照されたし。