このところ、古典を読み耽っており、ブログをサボった。


で、古典を読んでて実感したことは、智慧に東西の違いなしということである。



以前、人間の自我意識のどうしようもなさについて述べた禅語に


「自屎臭きを覚えず」(『碧巌録』)


(自分のウンコは臭く感じない。


それは同時に他人のウンコだと臭く感じる、ということでもある。


臭気の成分にそんなに違いはないはずなのだが、


自愛はこんな幻覚を生じせしめる。)


とあると書いた。



で、モンテーニュの『エセー』にもこうある。


「われわれがおたがいに加えあう非難の言葉だけではなく、


討論の材料に持ち出されるわれわれの論拠も、


普通はわれわれのほうへはね返ってくるもので、


われわれは自分の武器で自分を刺すことになる。


これについては、古代はわたしにいくつもの重大な例証を残してくれた。


こういう文句が、実に巧みに、適切に、


それを思いついた人によって言われている。


誰にとっても自分の糞はよく匂う」


(『エセー』―意見をかわす技術について。


「よく匂う」は「とても臭い」の意味ではなくて「いいにおいがする」


の意です。為念。)


こちらはエラスムスの『格言集』からの引用だという。


言い争いで腹を立て合うのは、糞の嗅ぎ合いをしているようなものか。



モンテーニュのほうは文中で用いられているので、意味が限定的であるが、


禅僧と人文主義者が似たようなことを言っているのがおもしろい。



新井白石のごとく東西の思想を比べてパクリだなんだの言うのは


愚行だと気づいた。


しかし、どうでもいいが、みんなウンコが好きだなあ。

直近の暴力団対策について、


国内最大の暴力団の組長がインタビューを受け、


その中で、暴力団を排除すると治安が悪化すると言ったとか。


これは、そうかもしれない。


前に書いたシラクサの僭主ディオニュシオスとお婆さんの話ではないが、


悪い人が去ると、さらなる悪い人が来るのだ。



小生がたまに見ているブログの書き手が、


このインタビューを読んだらしく、


組長を、善悪に関係なく魅力的である、と述べていた。


残念だが、善悪に関係なく、ではなく、悪だから魅力的なのだ。


人間は悪が大好きなのである。ここを勘違いしてはいけない。


暴力団のトップともなれば、


人間の心の弱さ、悪いことが大好きなことを知りぬいている。


だから魅力的に映る。



人間の心の弱さを知りぬいている、といえば、お坊さんもそうだ。


仏教、キリスト教ともに。


であるから、優秀な坊さんが政治などの修羅場に注力すると、


目覚ましい仕事をすることがある。むろん、破戒僧だけど。



日本だと、今川義元の参謀であった臨済僧・太原崇孚が有名だ。


彼は、今川の人質になるはずだった松平竹千代、のちの家康が、


織田家にさらわれた際、織田の支城を攻めて城主を生け捕りにし、


竹千代と交換するという妙技を見せた。



家康は今川の部将であったからこそ、桶狭間合戦後に独立できたのであり、


織田の人質のままだったら後の天下取りもどうなったかわからない。


太原和尚の事業は後の日本史を大きく決定づけたといえる。



16世紀スペインの植民地ペルーで、


ゴンサーロ・ピサロが本国に対して反乱を起こした際、


鎮圧の命を受けてペルーに赴いたのはペドロ・デラ・ガスカという坊さんであった。


何と徒手単身であった。


しかるにデラ・ガスカは弁舌巧みに反乱軍を離反、懐柔し、


その軍勢にゴンサーロを討ち負かさせることに成功した。


こんな傑物をさらりと派遣する当時のスペイン王室もすごかったのだなと思う。



そして、ヨーロッパで最大の僧職政治家といえば、


やはりリシュリュー枢機卿だろう。


また、『三銃士』の映画やるらしいが、見たくない。


どうせリシュリュー、ショボイんだろう。


リシュリューにはもっと大物俳優を使ってもらいたいもんだ。


クリストファー・ウォーケンあたり。色白なので。



坊さんとヤクザ。ベクトルは正反対だが。


以前、呉智英が、内田春菊との対談で


「仏教もヤクザも、社会に背を向けて道を極めるという点で極道なんです。


お釈迦様もパンチパーマかけてるでしょ(笑)」


と言ってたのを思い出した。


くれぐれも悪の道には進みませぬよう。

小学生のとき、『真田幸村の謀略』という映画を見に行った。


冒頭は関ヶ原の合戦直後のシーン。


萬屋錦之介演じる徳川家康が


石田三成のしゃれこうべを箔だみにしたものを杯に一献。


顔を顰めて曰く、


「黴臭い!」


そばに控えていた金子信雄演じる林羅山の言うよう、


「もそっと若いしゃれこうべがよろしゅうございましょう」。


むろん豊臣秀頼のことである。


我ながらよく覚えているが、それだけインパクトの強烈な映画だった。


ちなみに、幸村は松方弘樹。


私はおませな歴史マニアだったので、絵で見た林羅山とは違うなあ、


それに、林羅山といえば、当代随一の知識人だろうに


こんなバカっぽくていいのか。


と思いつつ、金子信雄の林羅山像は克明に脳裏に焼き付いた。



で、この林羅山が、キリシタン・不干斎ハビアンに面会した時の文章がある。


「またかの円模の地図(地球儀)を見る。


春(林道春。羅山のこと)曰く、


上下あることなしや。


干(不干斎)曰く、地中を以て下となす。地上また天たり。地下また天たり。


吾邦舟を以て大洋に運漕す。


東極これ西、西極これ東。ここを以て地の円なるを知る。


春曰く、この理不可なり。地下にあに天あらんや。


万物を観るに皆上下あり。


彼の上下なしと言ふが如きは、これ理を知らざるなり。」(『排耶蘇』)



羅山は世界が丸いということが認識できず、頑迷な理屈を述べている。


彼の脳中では、この世が丸いということはあってはならないことらしい。


羅山は「咲(わら)ふべし」などと書いている。


しかし、現代人から見れば「咲ふべし」は羅山のほうである。


『排耶蘇』(イエズスの教えを排す)などと息巻いたけれど


数百年を経て恥をさらすことになってしまった。


羅山は「千載の笑ひを遺さん」とも書いているが、それも自分のことだな。


(なお、ハビアンは「吾邦」などと言っているが、彼は南蛮人ではなく日本人である。


これは左の人がすぐ外国かぶれになるのを連想させておもしろい。)


思うに、金子信雄の林羅山はけっこう実物に近かったのかもしれない。


でも、羅山のイデオロギーは徳川幕府の長きにわたる泰平を支えたのであるから、


大したものだと言うべきか、人間って大したことないねと言うべきか。



お釈迦様は論争の愚かさを説いておられるが


(『スッタニパータ』第四・八つの詩句の章 11 争闘)、


人間は主観で言葉を発しているので、


大概かかるバカ比べのようなことになってしまうのである。



しかし、この羅山のエピソードから学べることもある。


絶対のように思える「上下」でさえ、認識を改めると絶対でなくなる、


ということである。


その先に自由がある、と思えば、多少なりとも気楽にはならないだろうか。