2月5日に本郷キャンパスで行われた日本学術会議主催の公開シンポジウムに参加した。
翌日は推薦入試もあり,最後の討論まで居ることが出来なかったのだが,
とても為になるシンポジウムであった。
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(ここは内容とは関係ないので,急いでいる人はとばしてOK)
お昼前にお茶の水から本郷キャンパスまで歩いて(酷く遠い),ランチが出来る場所を守衛さんにお聞きしたら,校舎では一番高いビルの医学部の棟の最上階にイタ飯レストランと赤門近くの建物に食べるところがあると言われた。2カ所共行ったのだが,建物には電気は付いていないし,エレベーターで医学生にばったり会ってビックリされ,結局土日はレストランがお休みだとわかり,東大の守衛さんは入り口に立ってMAPを配るだけで,あまり役に立たないことが分かった。仕方なく,赤門近くの道路を挟んだ向かいにあるダージリンという怪しげなインド料理店に入り,信じられないくらいゲホゲホと咳をするインド人の店員が,注文したビリヤニアップを持ってきたので,2口で食べるのを止め,マンゴーラッシーのみを飲んでお金を払い出てきた。その店での収穫は隣のテーブルの東大生カップルの別れ話のみ。
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前日にあった日本学術会議の公開講演会では,前日の「安全保障と学術の関係:日本学術会議の立場」が朝日をはじめとするマスコミに取り上げられ大盛況で,
5日のシンポも多くの方が来られていたが,広く聴衆を集める前日の話題に対して,
すこし身内のみの感じがしてしまったのは私だけだったのだろうか。
世間一般では,小学校英語,英語教育に関しては,早急に対処が求められる話題ではないと考えられているのかもしれない。
一部の知識人の中では英語教育も関心事となっているのでしょうか。内田樹の研究室(ブログ)の「役に立つ学問」で話題に出していただいてとても感謝してる。
私の周辺の席の方は100万人の英語のあの鳥飼先生に会えるっていう、ミーハーな感覚な方もいて, 問題を共有できる感がしなかったのは残念だった。鳥飼先生が,英語を話されたときに,「わぁー」(よい発音だわ,良いわの簡単)っと言っていたので彼らはミーハーに違いない。重要視せねばならない観点が,彼ら彼女らと私は全く違っているのだ。
このシンポジウムでの提言は昨年度の11月4日に学術会議から出されていたので,プリントアウトして事前に目を通しておいた。
最初に提言の内容として大きく分けて3つの点が述べられた。
1)非母語としての英語という視点の共有
2)英語で行うことを基本としない英語教育への変更
3)文字活用,書きことばの活用
司会の先生が併せて,
・実用性とは何か
・言語能力を習得するとはどういうことか
・非母語を習得するのにどれだけの(労力)時間を費やすべきなのか
・読むこと,つまり文字をもっと教育に積極的に入れていってよいのではないか
ということも最初に述べられていた。
文化の邂逅と言語分科会という,一見何の分科会か分からないようなタイトルで,
そこに集まった構成員の先生方のお顔を拝見して,「なるほど」っと後で理解出来た次第だった。
林徹先生という,トルコ語がご専門の,お茶目なタイプの方が司会を務められ,
ドイツの移民のトルコ語話者についても研究している先生で,ドイツの移民の子供達と撮った写真を紹介に載せて下さり,陽気な感じが一見付き合いやすい方のようで良かったです。
英語を学ぶ日本の子供達と,ドイツ語を学ぶトルコ語話者の子供が全く別のことではないのだっという認識をお持ちだと勝手に推測しました。
だから,大津先生からもっと声を大にして日本語の言語政策に関して述べないとダメですよっと言われていたのだと思います。
最初の大津先生は,学習指導要領を根本的に議論するため,この時期にシンポをしましたと述べられた。
先生のおっしゃることは,10年以上前先生とお知り合いになって以来(きっとずっとその前からも)同じで,母語獲得と外国語学習はイコールではないこと,外国語教育を単体で考えるのではなく母語と併せて考えていくべきであるということ。普遍性に基づく個別化(個別性・多様性)が必要で,国語教育・英語教育・日本語教育の連携が必要だと述べられていた。
圓入さん(文部科学省)からは,母語と連携して教えていくことについてはご自身も悩まれているということの前置きをされた上で,次期学習指導要領における外国語教育の概要について説明があり(細かい字で書かれたプリントで,帰ってから同僚に回覧してみたが,皆よく見ないし,よく分からないプリント),わたしはここにお呼ばれしてきたけど,私だけが決めているんじゃないわよんみたいな感じを受けた。優秀なキャリアの方なのでしょうから,個人的には違う意見でも,言われたら実行せねばならない立場にいるのでしょう。彼女が他の登壇者が述べている間,必死にメモを一生懸命とる様子を見て,教科調査官か視学官が来れば良いのにと思った。少し憐れだ。
話の合間に,議論やコメントもちょくちょく入り,その中で私が印象的だったのは,
文部科学省の天下りの話。以前天下りをした教科調査官や視学官(誰だか知っている人は分かります)が,全国の講演会で現場に対し何を話していたのか(たぶん現場の教員からのリーク),現場を見下して強要して脅し,挙げ句の果てには天下りしていた事実を憤りを持って言われていたこと。また,教科調査官や視学官(現場の英語教員上がり)は,英語屋しかいない,そういう観点の人がいないっという痛烈な批判だった。つまり英語教育政策に関して,ことば・言語としてとらえて考えることが出来る人が一人もいない。っという嘆きと,怒りだった。また,私がお聞きして驚いたのが,学習指導要領の内容を決めている人達がいかに不勉強であるかということだ。そしてそういった方々が大事な政策をいとも簡単に決めてしまっていることだった。言語習得の最良の方法が,四六時中その研究に当たっている研究者の中でもはっきりとしないのに,ど素人に小学校英語を教えさせようとしていること,CEFR(セファール)が読めない人がいたりすること。大丈夫なのかしらと不安に思った。
ことばを大切に扱う研究者の方々からすれば,この英語屋という言葉は,最大級の軽蔑を込めた罵倒の言葉だと私は受けとる。だから少なくとも私は英語屋とは違う。違う観点で英語教育に携わっている。私だけでなくそういう考え現場を持った先生方が少なからずいると思う。現場の人間としては,そういう英語の先生を文部科学省に推薦できるシステムにして欲しい。お馬鹿ばかりではないことを示したい。
すでに小学校では英語教育が教科化するということが出されたが,
そのような議論にならない議論を経て決められる国であること,それ自体が非常に危険であると感じるのは私だけではないはずである。
小学校を中心に中学校にも入って英語教育に携わったご経験のある伊藤摂子先生が,児童の理解が不十分のまま進んでいる現場を状況を教えてくれた。ある程度英語が出来るようになるには1000時間必要で,学校教育では限界があるということ。英語を習得させるには,学習者の教育環境を適したものにすることが大事で,理解させるには母語(日本語)を活用することが良いと言われた。
英語で英語の授業をする事に関しても,議論がないまま進められたらしい。複言語主義とは一体どういう意味なのかということなしに進められたということだった。
英語で授業をすると内容が薄っぺらくなる。
内容を置いておいて,英語だけさせるのは難しい。
言葉は思想の元となるもの。母語の重要性,読解力こそが英語教育の根幹である。これは外すことが出来ないということを登壇者の先生が堂々と述べられた。
税金を大量に入れて,一体国はどこに舵をとって行こうとするのかとも案じていた。
東京大学の伊藤たかねさんは英語指導に文字の活用・書き言葉の活用をもっと入れるべきだとのことであった。
Mele kalikimaka (Hawaiian Christmas song)
上記の言葉はメリークリスマスのことらしい。英語でメリークリスマスと聞いたハワイの原住民の人がハワイ語でその音を当てはめて作った語で,実際今もこの言葉は現地で使われているらしい。文字を用いない学習は,母語の音韻体系へのはめ込みをする。日本語で言うと,カタカナで覚えようとするそうだ。
それは,その現象は小学校の現場で実際起こっているらしい。部屋に入ってくる小学生がしきりに「村上、村上」というので,何かしらと思ったら,
May I come in? (ムラカミ?)のことだったそうだ。衝撃的すぎて,例を書き留めておくことが出来なかったので,その他紹介は出来ないが, ずいぶんとたくさんあった。
以前教職員住宅に住んでいたとき,冗談で同僚がマヨネーズイズ~と娘に教えていたのを思い出す。私もおもしろがっていた。しかし,それが冗談ではなく,真面目に学校で教えられているのだとしたら,大変問題である。幸いその娘は県下で一番校に入学し優秀な学生である。「何言っているの,お父さん。それはMy name is だよ。」なんて正しい答えを娘が知っていた場合だけ有効になる。
英語教育に関しては,読み書きと会話のバランスをよく位置づけることが大事であり,音と文字の利用可能な質と種類を母語と外国語で交わし身につけていくことを提案されていた。文字を入れることで,外国語を理解すると述べられた。
全く違った体系を持った言語があることで自分の言語(日本語)の構造が分かることが,外国語を学ぶ利点であるという。
小学校英語に関しては,文字活用を慎重に考えているが,むしろ文字を入れた方が良いのではないか,もっと児童生徒の知性を信じて欲しい。出来る生徒がいるはずであると伊藤たかねさんは述べられていた。
どなたかが,「言葉がどういうものか皆知らない」っと言われた。確かにそうだ。
だから,研究者達も国語・外国語に関わらず,言語を教える現場の教員も皆悩んでいるのだとおもう。しかし,そういう不確かなものをさした議論もなく大切な児童期の子供達に下ろすことの危険をどうして大の大人が気がつかないのか不思議だ。
母語の使用は,レベルの低い者だけではなく,むしろレベルの高い者に対しても使うべきで,全ての生徒同様に行うのが良いと言われる専門家の方々が多数いた。
今回の先生方の提言を実現するために,
私にはいつくかの案がある。
1.英語を受験しなくても難関大学に入れるシステムを作る。
2.センター試験の英語のレベルを今年度並みに今後もする。(基本中の基本のみを出題)
3.普通科の学校(英語の勉強に明け暮れている) だけでなく,専門高校からの難関校・難関大学の実績を上げる。
4.言葉の教科に関しては母語での理解力や論理性,批判力など母語の使用能力を求めることに重点を置く。
今まで覇権をとって来た英語が別の言語に変わるように仕向ける。つまり英語が出来る人に価値を置かず,評価しない世の中になれば全て解消すると思います。
英語で難関大学受験が左右されている間は難しいです。 以上。