夏目漱石と言えば,言わずと知れた日本の文豪ですが,
一時期,英語教師として生計を立てていたということで,
もうこの世にはいないのだけれども,ふとした時などに思い出される。
漱石の足跡を辿るまでは面倒なのでしませんが,
要所要所で彼が普通でないこと、いや,変わり者だったこと,いや,大変興味深い人物だと分かり,
今更ですが,私にとって観察したい対象になっている。
漱石のおかーちゃまは,相当なご高齢で漱石を身ごもったようで,彼は母親に「面目ない」と言われていたようで,同じように高齢出産で授かったあの方、この方の顔が浮かんできて,しかも「最初に出来たと聞かされたときはどうしようか悩んだけど,産んで良かったわ。」とあっけらかんと子供の前で述べるおかーちゃまと重なり,涙が出てきそうになった。
それから養子に出されるのだけど,養父母は離婚して,養母に連れられ実母の家に帰ってくるのね。夏目の姓に戻るまで10年以上かかったようで,大変複雑な幼少期を送っていて,それが彼の人生にとても影響を与えているように思う。
学業成績優秀な幼少期青年期だったため,お兄ちゃんから嫉妬されたり,17歳頃,特に英語が得意で私立学校ですでに教師として働いたことは,今の高校2年で生徒に教えることができた人だったことで,成熟した人間にならざるを得なかったその当時のことがうかがわれる。その時代はALTなど全くいないし,世間で生の英語にふれることなど出来ないような時代に英語を学ぶことは,ある意味,宇宙語のようなものだったにちがいない。
途中割愛
それから,29歳の時に坊ちゃんの松山から今の熊本大学で教鞭を執ったのね。漱石が鏡子夫人と結婚したのも,長女に恵まれたのも熊本なわけ。
今熊本県民が口にしている,日本酒の「れいざん」や「香露」を飲んだり,辛子レンコンや馬刺しなんかもきっと口にされていたと思うわ。
しかし,あとで相当な甘党だったと知り,お酒は好きではなかったかもしれないなぁーと想像してみる。味覚の面では辛党のわたしとはきっと合わなかった。
漱石の英語教育に関するスタンスはどのようなものだったのかしらと,学生の講義の中のちょっとした会話や行動なんかでみてみると,
英語教育イケイケ派か英語教育慎重派かどちらかといえば,
どちらどもあったように感じる。
熊本に赴任してから,ロンドン行きの切符を得ることになったわけだけど,それはその当時の文部科学省から英語科教育法研究の為に派遣され渡英したわけ。いわゆる,少し前まで現場の教員も行けた英語圏の派遣ね。だから漱石が今の英語教育のありかたの方向性を決める人物の一人となったと言えないだろうか。彼は最初間違いなく,イケイケ派だった。日本のエリートが形作られる上で,その当時から英語というものは外せなかったし,多少得意としていた漱石もそれにあやかっていたのは間違いない。
それから,ロンドン留学中に,案の定,英文学をやる意味とか(東大に在学中からそうだったらしいけど),英語教師たる自分に嫌気がさして,また病んでいく。留学中の書簡で,自分の知性が役に立たないと嘆く文が妻とのやりとりの中で述べられている。アイデンティティーの喪失が何度もあったと想像がつくわ。今だから大丈夫なことも,その当時は大変なプレッシャーと喪失と苛立ちと,悔しさだっただろう。日本人が外国に住むことがほとんど無いような時代に留学することはきっと喪失の連続だったに違いない。
結局,彼が英語教育界に旋風を起こしたかというと,別に真新しいことはせず,
文法をしっかりやった後,難しめの長い英文をひたすら読むということを生徒にさせている。今でいえば英会話重視ではなく,英文法・読解重視のやり方をつらぬいている。留学から帰ってきた頃からは特に慎重派だったように思う。
彼は40歳過ぎてから,英文学や英語を教える教職から一切退き,朝日新聞社に勤める。彼のこの行動から,英語教師であることよりも,文豪としての自分に重きを置いていたことが分かる。教鞭をとっている時, 生徒達に「“I love you.”などと日本人は言わない。『お月様がきれいですね。』ぐらいにしておきなさい。」と言ったことは有名ですが,これは日本と西洋の文化の違いを上手く述べた名言だと思う。細かいところまで上手に文字で表すことの出来た漱石の言語運用能力の高さを一つ表していたと思う。
漱石は英文学を読んでいる自分に嫌気がさす,
なんで俺が英語しなきゃいけないんだ?みたいなところが,少なからずあったんじゃないのかしらと私は思ってる。
漱石が亡くなってから今年でちょうど100年。
あれから大きく時代が変わっている。
漱石の経験は今日に生かされるのだろうか。
生かしていけるならどのようにしたらよいか。
同じ経験をしている人は少なからずいるし,そのような人は少数派でない。
きっと・・・・






