「下流志向」内田樹著 を読んで | 女王様のブログ

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「学びからの逃走」 佐藤学

「オレ様化する子供たち」 諏訪 哲二


希望格差社会「負け組」の絶望感が日本を引き裂く 山田昌弘


不平等再生産から意欲格差社会へ 刈谷剛彦


そして,


下流志向  内田樹


これらの書のタイトルは,そのまま教育社会現象を表現するものとして有名になりましたが,


特に衝撃的なタイトルで読まずにはいられないと思い手にしたのが,


下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)/講談社

¥550
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端的に言えば,

勉強を嫌悪し学ぶことから逃走する日本の子どもたちや,社会に出て働こうとしない若者の解説書。その人たちをどのように扱うべきでどうしたらいいかのアイディア本だ。

 

まずここでは「知らないことを,不安に不快に思わない鈍感さ」が,学びから逃避する原因の一つに上げられている。


人は何だかわからないものに遭遇した場合,それが何かを知りたいと思うのが知を発達させるうえで,またリスクヘッジ(危険を回避)した生き方をするのに大事だ。


普通はわからないものに遭遇すると,喉に小骨が刺さったような感覚になり,気持ちが悪い。しかしそれが全然気にならないというのは,クマが冬眠する状況に似ているという。ある意味仮死状態なのだという。


知的に成熟しない,何が起こるかわからないような不安定な生活を,不安とも思わないように振舞えるのは,ある意味,人が仮死状態だからだという。これは非常に面白い表現で,早速使わせていただこうと思う。


内田氏は子供や若者について言及されているが,仕事帰りの髭を生やした中年のおじさんや,ご近所の噂話に花が咲いているお買い物帰りのおばさんなんかも,結構な確率でこの仮死状態だと私は思ってる。


逆に,

民衆が愚かで知恵がなく,もの知らずで,

とにかく消費好きだということは,国家権力者にとって非常に好都合である。

ゆえに,ある意味,国の思うつぼにはまっているのが,学びから逃走し社会で働かない人たちなのではないだろうか,と私自身は考える。


取り方はそれぞれにせよ,

分からないことを分からないままにしておくことで,後に自身の身に起こる予期せぬ不遇・不足の事態に,最近の人々の傾向として,

本人の意思の下,,悪行を行っているにも関わらず,その悪事が第三者の目にも明らかになった場合,


改心しないで居直る

という選択をすることがまかり通るようになった。


どのように危機を回避するかというと,悪い行為そのものをしていないと言い張ることで,罰を逃れ,その場をやり過ごすのだ


悪い行為や咎められるような行為を行っていないかのように振舞う。

内田氏は学校教育の中で,生徒がふかした煙草を手にして教師に見つかり咎められたら,「俺は煙草をもっているだけで,決して吸っていない。」と述べた事例でもって説明しているが,実はこれは,どの世代のトンデモナイ人達にも当てはまるものだ。


日本に,このような往生際の悪い無自覚印の人々が多く出没するようになったのは,アメリカの“I'm sorry.”とたやすく言わない文化に似ているという。

アメリカでは相手の車に傷をつけてしまってもたやすく謝らないらしい。


「すみません。」は,アメリカではタブーの言葉になってしまっている。

謝ったが為に,相当な賠償金を払わざるを得ないことにだってなりかねないからだ。


次にあげられる理由として,

子供達が生まれてから一番最初に経験することが「消費行為」であって「労働行為」ではないという事実。


いくら知恵がなく幼い者でも,お金を払う行為を行えば,どんな大人でも下に従えられるという快感を味わうことができる。ある商品を手にしたらその価値を理解していると見なされることが,未熟な子供たちですら消費者としての快感を与える。実際のところ,セールスマンはモノが売れさえすれば相手がどんなに幼稚でも構わない。儲かりさえすればいいから。

ここで,お金を払えば好きなものが手に入れられるし,大人ですら従えられるという快感を得てしまうこと。これが労働して誰かに感謝されるという行為よりも先に来てしまっているからだという。


学校で学ぶことを等価交換的な取引として考える子ども達。


「寡占を払えば商品(あるいはサービス)を手に入れられる。」という消費者マインドの考えから,「不快」という寡占を払い,子供たちは教師からのサービスを期待しているという。教室で机に座り教師の授業を聞きノートを取る苦役をし,「俺はこれだけ(苦役・不快を)払うんだけど,それに対して先生は何をくれるの?」という考えだ。「どうして教育を受けなくちゃならないの?」とか,「学ぶことに何の意味があるんですか?」というような問いを子供たちができるということそのものが,歴史的に見て例外的な事態であることを,当の本人たちは知らない。世界には学校行って学びたくても学べない人がたくさんいることを知らないからだ。

以上のような質問に大の大人は決して回答してはならない。回答してしまえば,そこで子供たちは達成感を得てしまって,その後,答えが気に入ればするし,気に入らなければしないという基準を子供たちの中に作ってしまい,結局ろくなことにならない。そして,等価交換的な子供が出来上がると内田氏は言う。


何の役に立つかわからないけれども,何かのために学んでおく


リスクを取ってハイリターンの生き方を教えるのではなく,リスクヘッジ(リスクをできるだけ負わない)生き方を教えるべきなのだが,誰もそのことを教えてはくれない。リスクヘッジの生き方をするには,学校でしっかりと学ぶべきことを学ばなければならないし,基本的な知識や立ち振る舞いを身に着けなければならない。

「若いうちに苦労は買ってでもしろ!」という言葉は当たり前のことを当たり前に行う上でのことで,自身の力(能力)以上のことを無理にやろうとして手にかければ,無理がたたって病気になるか,そうでなくても自分が頑張っているつもりで周りに多大な迷惑をかける羽目になるか,悲惨な結果であれば破たんする。

極力リスクを背負わない,リスクヘッジの生き方を学ぶことが賢い人々の生き方なのではないかと私も考えるようになった。それは決して楽して遊ぶことでなく,着実にやるべきことをこなすこと。それは世代によっても違うだろう。十代はとにかく基本的な学びを得て,心身を鍛えること。世の中での振る舞いを身に付けることではないだろうか。


厄介で面倒くさいコミュニケーションは自分自身が生きやすくするため,又は社会全体のためにも必要なことであると説く。



ある程度の年齢になっても働かず,どのコミュニティーにも属さず,社会生活から外れて,親の庇護を受けながらかろうじて生きていっている人々の老後は,想像するだけで相当厄介そうだ。


厄介から逃れるには,厄介に挑まねばならないが,自分が壊れない程度にしないとならない。そこまでしたことがないから,内田先生は面倒なコミュニケーションでも積極的にしていくなどとおっしゃるのだろうなぁと,斜めな目で見てみる。


30年間引きこもりをしていた50歳の男性が,高齢の母親が亡くなった後に生活が立ち行かなくなり事件を起こしたことが報道された。具体的な統計は出ていないが,相当な数のニートがいるとしたら,将来このような人々が親が亡くなった後,生活の糧が無くなり,孤独になり結局社会全体で面倒を見なければならなくなる時が来る。その前にどうするべきかを考えなければならないと内田氏は言う。

とにかく,あまりすっきりとはしなかったが,考えさせられる面白い本だった。