街場の文体論 | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

仕事の合間に,
少し暇が出来たのでTUTAYAに入ったら,
内田先生の本が直ぐに目に入ってきて,
一番売れていて,
興味深いタイトルだったので購入。
ポイントをつけるためにTUTAYAカードを提示したら,
ポイントが相当たまっていたようで,
現金なしに買うことが出来ました。

街場の文体論/ミシマ社
¥1,728
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いつも通り,たくさんの付箋をつけながら気になるところを読み進め,

目から鱗の部分が多くあって,

頭が覚醒する。


良書を手にしたとき,

人生が変わるような感覚を持った戦慄が走ることがあるのだけれど,

内田先生は,

そういう感覚を起こさせてくれる,私が気になっている部分を言語化してくれる方のお一人。


一番最初にマークしたのは,


・マジョリティが「行ってはいけない方向」に逸脱していったからこそ,制度がきしんであちらこちらにほころびが出来ている。生き延びるためには,皆は「向こう」に行くけれど,自分は「こっち」に行った方が良いような気がするという,己の直感に従うしかない。

・言葉にも「命のある言葉」と「命のない言葉」があるから。書き手や読み手の「生きる知恵と力」を高める言葉があり,生きる力を損なう言葉がある。その違いを感知して,生命力が感じられる言葉だけ選択的にたどっていく能力は,皆さんがこれからの時代を生き延びるためには必要なものだと私は思います。


エクリチュールの話はやっぱりすごくすっと入ってきた。

エクリチュールの標準化圧力に対してあまりにも無自覚だと,人間としての扱われ方が雑になるというリスクを引き受けねばならない。これを避けるために,ヨーロッパの知識人は自分たちの語法でしか語らなかったのだろうし,理解できるのは一部で十分だという感覚があったのだろう。ある意味,自分の身を守っていたのだと思う。

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ラカンのパラシオスの例。

人を騙そうとするなら,受信者が余計な解釈をすることなしに,メッセージを受けとるように仕向ける。そのためには,その向こう側を見させるような何か,つまり「手押し車」や「額縁」のようなものでなければならない。とか。

兄弟の中でも,私の名前はちょっとした有名人につけてもらったのだけど,私の両親は,まさにパラシオスの例。だから,私はその人の言葉を幼い頃からある意味絶対的に信じていたし,今もなんだかんだ言って,その人を尊敬してる部分がある。それは両親に向ける敬意とは別。

変化の激しい社会にいるほど,

「生き延びるためのリテラシー」が高くなる。

っていうのは,

銚子沖のとらえられた鰯がアンコウに食べられまいとしてもがくのと似ている。


私がずんどこに落とされていたときは,自分の語法ではなく相手に合わせた語法で語ったからなのかもしれないし,

警戒心を全摘した,素っ裸だったからなのかもしれない。

本当はとっても嫌だし,迷惑なこともたくさんあったのだけど。


ここも面白かった。


日本で,きわめて生ぬるい言語環境に置かれた人間が,クリエイティブな言葉づかいを習得できるのでしょうか。

ヨーロッパ発の言語についての理論がそのまま日本に適用できるのか。僕はちょっと無理じゃないかという気がしているんです。


私もそのような気がしてた。


無理なものは無理。


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ここは,

ささやかなブログで,

私が何書いてもさして影響はないんですが,

私のことを知っている少数の方々がいて,


わたくしめのエクリチュールの檻の中では,

結構言いたいことが制限されてしまってます。


なもんで,


本日のみ停泊し,書きたいことの3分の1も書けていないことだけお伝えして,

また蟹工船に戻ります。

では。