言語というものの考察 | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

内田先生のブログがとても考えさせられるものだった。


内田樹 研究室の「言語を学ぶことについてより http://blog.tatsuru.com/


以下途中抜粋


大学サイドから見ると、新入生の英語力は年々劣化を続けていることは手に取るようにわかる。進学にも、就職にも、英語力は絶対に必要であると官民あげてうるさくアナウンスされているにもかかわらずその教育成果は上がらない。なぜか。
英語力の必要が喧しく言われるようになってからむしろ英語学力が低下したという事実は一見背理的であるが、考えれば説明がつく。


中略


「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益が事前に開示されていた場合、人間は「では、どうやって最短時間、最小エネルギー消費で、『そこ』にたどりつくか」を考えるからである。最小の努力で、最大の報償を得る方法を考える。費用対効果の最もすぐれた学習方法を探し始める。当たり前のことだ。
日本の子どもたちも大人と同じように合理的に思考した。だから、「最小の学習努力で、高い評価を得る方法」を考えたのである。


中略


親の一方が熟達した日本語の遣い手であるために、子どもの国語の成績がいいことを「アンフェアだ」と言い立てるものはいない。
「熟達した日本語の遣い手」というものがありうること、長期にわたる集中的な努力なしには、そのような境位に至り得ないことを人々は認めたがらない。
だが、もちろんそのような文化的環境は存在する。それによる言語運用能力の差異は歴然として存在する。
でも、それを認めない人たちは自分が用いる日本語を豊かなものにすることに何の関心も示さない。


中略


そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれており、外国語の習得によってはじめて「母語の檻」から抜け出すことができるという言語の底深さに対する畏怖の念がない。言葉は恐ろしいものだという怯えがない


(私の考え)

言葉を教えることは,ある意味恐ろしいことだという感覚をうまく表現されていると思う。

誰かがけなしたとしても,

わたしにはわかるんだよなぁ,内田節。

やっぱり好きだなぁ,樹節。