「強い者には媚びて、弱いものを侮って脅し強気に出る」人間を動物的な本能が強い、気持ちの悪い人間だとして,わたしは「畜生人種」と思って呼んでいる。
それは,人が持つ動物的な本能の負の面を非常に軽蔑して述べたもの。
自分より弱い立場の人間を明らかな力の差があるにもかかわらず,言動でボコボコに痛みつけるような行為を平気でする人が本当に嫌いだ。
いじめをする人間は負の本能が強い人なのではないだろうか。
自身の利害関係だけで、強い人間の言動を聞き,弱い人を侮ってバカにするような人たちとは,わたしは友達になりたくないので,関わり合いを持たない。どうしても付き合わなければならないときは,距離を置く。
同じ集団の中でも、「あーこの人の考え方って危ないなぁー。」と思うことは度々あって、後あと、その本人が、それが間接的にか直接的にか、いずれかの原因で深刻な悩みに翻弄されているのを見て、「あっ、やっぱりそうなっちゃうんだなぁー。」と路傍の石みたいに傍観することもある。
関わり合うと面倒になりそうな人、自分との距離が遠い人に、はっきりと言ってあげた方がよかったかなぁーと後悔することはないけれども、近い人には後悔しないように最善は尽くしてる。
はっきり指摘して、逆に恨まれるのも嫌だからたまに見過ごすこともある。本人はそれが最善だと信じて行っているわけだから,反対のことを言えば反発するに決まっている。
嫌われ役を買って出るなんて勇気のいること。
相手の意図とは反対のことを指摘しなければならないのを、四六時中強いられている状態に、自分とは対極の人間とかかわらないで済んでしまうような人は、なんて無責任なのだろうと、気持ちも分からずいうんだろうなぁー。
喜んで「奴隷」になる人がいるって?奴隷を従えて、横柄にふるまっている人間が述べることでない。
奴隷の中にそういう人が居たなら、「あっ、そう。でも私はあなたと違うから一抜けるわ。」なんていうのもあり。
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過去の歴史を振り返れば、強権に屈して畜群化された社会集団は歴史上いくつも存在してきた。
近代の畜群はそれとは決定的に違っているといわれている。
それは、現代人は「みんな同じ」であることそれ自体のうちに「幸福」と「快楽」を見出すようになったから。
相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを、ニーチェは「奴隷」(Sklave)と名付けた。
ニーチェの後期の著作には、この「奴隷」的存在者にたいする罵倒と嘲笑のことばが渦巻いている。
ニーチェの道徳論の際立った特徴は、このみすぼらしい大衆社会から抜け出す唯一の方策として、「奴隷」の対極に「貴族」を救世の英雄として描き出したことにある。
「貴族」とは大衆社会のすべての欠陥からまったく無垢で気高い存在。そして人類の未来を託するに足る唯一の存在なのだ。
「奴隷」が「相互」模倣の虜因であるとすれば、「貴族」は、自分の外側にいかなる参照頁も持たない自立者。
「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」、それがニーチェのいう「貴族」だ。
すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生じる。
この「貴族」を極限までつきつめたものが、「超人」。
「超人」とは「人間を超えたポジション」のこと。
そこから見下ろすと人間がサルにしか見えないような高みのこと。
『ツァラトゥストラ』
「人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛に満ちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない。」
そこで、
ニーチェに一言もの申す
超人より偉い人がいます。それは「調教師」ならぬ、「超教師」。
モンキーを調教できる人です。