- バカの理由(わけ) (役立つ初期仏教法話12)/アルボムッレ・スマナサーラ
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無智に気付いて智者になる。
「無智な人が無知であることを知っているならば,それだけでその人は智者である。無智なのに智者であると想う(錯覚)者こそが確かに愚者である。」
馬鹿を構造的に理解する。― 無智の仕事
①人を不幸に陥れる
②悪を犯す
③認識を誤認に変える
④意見・見解を邪見に変える
⑤欲,怒り,傲慢,嫉妬,恨み,憂い,悲しみなどの煩悩の原因になる
⑥基層で働く(怒りなどの短所が分かっていても,裏にある無智に気付かない)
バカとの付き合い方 ― 無智を制御する
無智に気付くためのチェックリスト
・ 正しい判断が出来ていないとき
・ 判断できなくて優柔不断でいるとき
・ 鬱気味になるとき
・ 感情に負けるとき
・ 感情が凶暴になるとき
・ 混乱状態,興奮状態になるとき
・ 妄想のストップも,制御も出来ないとき
・ とりとめのない,とめようもない妄想が流れるとき
・ なにを妄想しているのか自分でも分らないとき
・ 心が活発に働かないとき
・ 人の話,意見などを鵜呑みにするとき
・ 自分の意見の改良を自分で拒否するとき
・ 他人に頼りたい,救ってほしいなどの依存状態に陥るとき
・ 自己責任を持てないとき
・ 精進・努力などが嫌になって,怠けが楽しくなっているとき
・ 自分の都合で何でも疑って,何もやらないとき
この中の項目が多ければ多いほど,「無智が強力な状態」にあるわけ。
下線の項目は,強烈に無智が強い状況だそうだ。
馬鹿には親分と子分がいて,子分に仕事をさせないようにするのが親分のコントロールの見せどころ。
バカの正体―四人の親分衆
1.無智 ・物事を客観的に冷静に判断できないこと
2.無慚(ムザン) ・恥じないこと
3.無愧(ムキ)
・罪を犯したり,悪いことをしたり,社会の常識から逸脱した行為をしても平気でいること。・刑務所や死刑になっても怖くないと思い,悪いことを行うことが怖くない状態。
4.掉挙(ジョウコ) ・浮ついていること。躁状態で落ち着かなく集中できない状態
無愧は悪いことは恥ずかしくもないし,怖くもないという心の状態で,掉挙(ジョウコ)の状態は浮ついて物事を観察したり,集中したりして客観的な判断力を失うこと。
無智というものは,誤認だけでなにもしない。
バカの誕生 無智とは「認識」の問題
認識するとは「知る」とは,生きるために心の中に「概念」をつくること。客観的なものを自己に取り入れ概念を形成する。
しかし,生命は主観で判断して生きている。自分の主観が「正しい」と思い皆生きている。自分の都合で概念を合成して,変えようとしない。もうすでに正しいと思い込んでいて,知っていると誤認しているわけだから,「生命とは何か」「生きるとは何か」などということはさっぱりわからないだろう。
「我は正しい」という気持ちで決定すると,その働きが無智の開始。
バカの敵―無智は恐怖を生み出す
自然な認識の流れそのものが無智ゆえに,われわれそのものが無智であるから,無智を定義するのは難しい。しかし,逆の定義を使えば無智を定義できる。無智の反対は「智慧」だ。
智慧の定義
六根(眼耳鼻舌身意)にデータが触れると全ての現象にたいして,無常か苦か無我かのいずれかを発見することが智慧(すなわち,バカに特効薬などないという人(実際あるけど)や,バカはどうしたら直せるのか?などと疑問に思う私はすでにバカを認識しているが故に,智慧の第一歩を踏み出しており,最終的に智慧をもったといえるのでは?)
すなわち,無智の定義は,六根にデータが触れても,無常か苦か無我かのいずれかを発見することが出来ない状態。
「無智の人は,自分を自分の敵にまわす生き方をしている人。なぜなら,(無智ゆえに)激しい悪結果を招く悪行為をするから」, 「愚か者には3つの特徴・特相・性格がある。その3つは,愚か者は誤った思考をする。誤った言葉をしゃべる。誤った行為をする。」とブッダは述べている。
原子爆弾や大量破壊兵器を作る人達,それを歓迎する人達は,愚か者。
原子爆弾や大量破壊兵器を作るのは無智ではない科学者や技術者でしょう?と聞く人がいるかもしれないけれども,それは愚か者で無智な人間。知識があるからといって智慧があるとはいえない。そういう人々は,貪瞋痴にまみれた,やりたいことばかりやる愚者で,わがままな子供の精神状態を脱していない。俗世間的に知識人と認められていても,生命に悪影響を与える行為をする人々は,仏教の立場から見れば愚者の本家本元。
智慧は明確に定義されていて,それは四聖諦と因果の法則と三印を発見すること。
バカは完治する―無智には特効薬がある
バカの治し方
無智を破る治療の条件
・ 「合成しないこと」つまり「主観で判断しないこと」
・ 集中力(私には,この集中力の出し方に関して様々な方法があって,それが宗派に分かれている理由の一つなのではないかと思っている節がある。)
真理を発見する― 無智の完治
認識も瞬間に生まれて消えるものだということに気づくこと。
因縁によって一時的に現象が現れるのだということを発見すること(智慧)を体得する。
先人の考えを多く学び知識を得ても,智慧にはならない。残念ながら知識とは合成されたもの。外から新しいデータを導入することは智慧にならない。
頑張って強引に無智を破ることを「智慧」という。
バカの原因
智慧を妨げる五蓋(ゴガイ)
・ 欲
・ 怒り
・ 昏沈睡眠(やる気がなくなって眠くなってしまうこと。)
・ 掉挙後悔(心の浮つき・後悔)
・ 疑
これがあるから,無智・無明(バカ)になるわけ。
これらの5つのフィルターが心にかかってしまうと無智になる。キリスト教では原罪のようにどうしょうもないものとしているけれども,仏教ではこれを破ればいいと述べているのね。
身体・言葉・心の間違い
無防備な認識の玄関口
・ 正しく見ないから制御もない
・ われわれには「如理作為(きちんとデータを取って丁寧に心を働かせること。)」
「これだから,こうなって,こうだからこうなって,なるほど。」というような理論的にいちいち分析して,心を働かせて丁寧に頭に入れていくこと。
如理作為があれば現象に騙されない(バカは制御できる)
バカを予防する―確信を作る
「確信」とは自信がある状態
どうしてわれわれは如理作為がなく生きているのだろうか。それは「確信」がないから。
「確信」とはなにか,それは国語的な「確信」とは少しニュアンスが異なる。それは自信がある状態で,「では知ろうではないか。」「怖くないぞ」などという明るい精神状態のことである。
しっかり生きるためには確信が必要。確信があると如理作為が生まれてくる。物事をいつまでもシャープに理解して生きられる。
確信を作るには理性が必要。すなわち,物事を調べる能力,善悪を判断できる能力。自分が納得した上で自分で責任を持って行動する生き方が必要。(わたしにとって,これが常に口癖で述べるところの「自立」)
世間とは何か,それは我々と同じ愚者の集まり。だから,世間と調和して生きていくことは無智を逃れられない。人は世間と調和しなさいという躾を受けているから無智を破れない性格の人間になっている。
スマナサーラは,
調和の道で無智は破れるか?という問いに,
「人間が世間に調和するというのはありえない無理な話だ。」と答える。「だから,何人かと調和して生きようと頑張る。」と。
そこで人間の間で仲良しグループが現れる。性格的に感情的に似た者同士が仲良しグループを作る。しかし,仲良しグループを作ることで,人として成長することが出来なくなる
ということで,興味深い本なので皆さんもどうぞ。