- ミソジニー「女性嫌悪」と訳される。ミソジニーの男には,女好きが多い。
- 女嫌いなのに女好きとは不思議に聞こえるかもしれない。それならミソジニーにはもっとわかりやすい訳語がある。「女性蔑視」である。
セックス産業は,男性に兼ね備わった,ハダカやミニスカなどという「女という記号」だけで反応する「パブロフの犬」ぶりのメカニズムが成り立たせている。
性別二元制のジェンダー秩序に深くふかく埋め込まれた核がミソジニー「女性嫌悪・女性蔑視」
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男の値打ちは何で決まるか
男を見ていると,かれらは女といるよりも,男同士でいることのほうがもっと好きで,気持ちが良いのではないか,と思わされることがよくある。
女の値打ちは男に選ばれることによって決まる(と考えられている)が,男の値打ちは女に選ばれることによっては決まらない。その点では,異性愛の秩序は,男と女にとって非対称にできている。
男に対する最大の評価は,同性から,「おぬし,できるな」と賞賛を浴びることではないだろうか。
男は,男の世界の覇権ゲームで,他の男たちから実力を認められ,評価され,賞賛されるのが好きだ。覇権ゲームの中には,地位を争う権力ゲームと,富を争う致富ゲーム,名誉を争う威信ゲームなど,いろいろなものがあるが,覇権ゲームの勝者になれば,女はあとからごほうびとして自動的についてくる・・・・・・・ことになっていた。
男はヒーローになることが好き。女はヒーローの男が好き。女を得たければ,まず男の間の覇権ゲームの勝者になるほうが早い。ヒーローには女が群がってくる。男が女からの評価を気にするようになったのは,女が自分自身の力で地位と名誉とを獲得するようになってからのことだ。
この逆は女の世界では起きない。女の中の覇権ゲームは女の中だけでは完結しない。必ず男の評価が入って,女同士を分断する。少なくとも,男の認める女と,女の認める女とのあいだには,二重基準があり,両者は一致しない。
- 女ぎらい――ニッポンのミソジニー/上野 千鶴子
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(私のコメント)
上野先生の著書を初めて手にして読んだが,はっきりと的確に分かりやすく,また,大変興味深くて面白い。
男性の事をよく分析して分かっているのは,実は同性ではない。上野さんのような女性である。しかし,女性の事を一番良く分かるのは男性ではなく,同性の女性である。男性が描写する女性像は,彼らの理想像や思い込みの空想であったりするだけで,実像でない。私もそう思っている。
女性として性を受け,歴史上背負ったミソジニーに対して,居心地が悪く感じているのがフェミニストなんだそうだ。そういう意味で,私もフェミニストの端くれだと思う。学生時代に,「女(おなご)のくせに!」とよく言われたことがあって,あの時は言い返せなかったけれども,「女のくせに?それってどういう意味よ!」と今は反論できる。
女性の社会進出が進む中で経済力も発言力も得てきて,男性も女性の声を聞かざるをえないようになってきたことは,現在,女性として性を受けて生きている私にとって非常にありがたく幸せなことだ。毎日充実して,本当に楽しくさせてもらっているのも,上野さんのような先輩方がいたからなのだろう。
まだまだ,都会と比べて男尊女卑の気風の土地柄で同等になってやっていくことは並大抵のことではないけれども,後から付いてくる後輩のために頑張っていこうと思う。理解のある連れにも感謝して・・・・。