慶応義塾大学言語教育シンポジウム  英文解釈法再考(大津 由紀雄先生)① | 女王様のブログ

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ある女性教師の日常のこと,悩みや課題を率直に書いた,ぶっちゃけ話。

慶應義塾大学言語教育 シンポジウム 英文解釈法再考


認知科学からみた英文解釈法


大津 由紀雄先生

(慶應義塾大学言語文化研究所教授)①


最後の登壇者は,2003年より7年間に渡りずっとこのシンポジウムの中心となって世間に問題提起してこられた,大津 由紀雄先生だ。先生のお話をお聞きする機会は,私にとってこれが3回目だった。


私の2003年といえば, 息子が産まれて職場復帰し, 女性はこんなにも大変な思いをしながら仕事を続けなければならないものかと思いながら, 仕事,育児,家事に追われていた時であった。仕事を続けていくべきかどうかと真剣に悩んだ時期でもあった。




あの時に先生に会っていたら, もっと早くわたしの悩みは解決できていたかもしれないと思うと, この7年という時間がとてももったいないような気がする。




あの時に,「君の悩みはそのようにあるべくして存在したもので, 君がその職業を選んだ時点で,当然抱えるべきものだったのだよ。だから,そんなことにこだわることはないんだよ。」とはっきり聞いていれば,こんなにも遠回りをせずに済んだのかもしれないと今だったら感じる。それくらいわたしは環境のすべてに振り回されていた。




先生の言語の講義を初めてお聞きしたのは,昨年の8月だった。

いつも変わらない先生の一貫した言葉は, 聞きするたびに安心する。一言一言が分かりやすく,何時間聞いても飽きない。先生の理念がしっかりしていて,ベクトルが一つの方向に向いていることが, 悩みを抱えた言語教師達をそのようにさせる。




言語学を専門的に学んだことのない,一般的な聴衆の代表者であるわたしが,そのように感じるのだから間違いない。




7年前のあの時に,先生のことを知っていればもっと違うアプローチをしていた,いや,もしかしたら,右往左往して痛めつけられたから,理解できたことなのかもしれない。この経験自体は全く無駄でないと信じたい。




先生に対する思い入れだとか期待は,わたしの中では

「父なるものの何か」であって,内田樹先生が知れば,わたしが言語教育界の不正や混沌とした状態を一掃してもらいたいと先生ばかりに求めるのは,間違っていると言われるかもしれない。


共産主義的な女性の連帯がこの世の中を平和的に形作るのであれば,父なる絶対的な存在は不要だと言い切る人たちにとって,わたしの言い分は危険極まりないのかもしれない。




しかし,現に言語教師として悩んでいるわたしは存在したし,今も混沌とした状態で苦しんでいる人は,間違いなく存在する。現実はそうなっている。闇の中にいる言語教師にとって,その闇を照らすのが何かを知ることは,仕事を続けていくのなら絶対的に必要不可欠なのだ。




若い研究者達,もしくは実のないいやらしい研究者達がこぞってこういった悩みを抱えた言語教師を調教しよう(野心や私心を抱えて)とシャシャり出てくるのであれば,まったく聞く耳を持たないであろうが,先生のお言葉だから私自身は耳を傾けることの出来る。



先生だから,聞いてみようという気になった。そして,今思えばその気になって正解だったのだ。なぜなら,わたしは現在も言語教師を続けられており,しかも以前よりもまして楽しく暮らしているからだ。




大津先生が今まで何度も強調されていることは,言葉は皆平等なものであるということ。言葉はどのように人間が身に付けていくものなのか,物事には様々な見え方があるものであること。人間は目に見えるものでしかそれが理解できないものだが,見えないものを言葉にしてその違いを解き明かし,聴衆の盲目な考えを晴らそうとしている。わたしは,先生の講義を聞くといつもそのように感じる。




英語崇拝主義,英語万能主義,言語帝国主義者たちの奇妙な言い分を,そのまま正しいと思ってはいけない,きちんとした正しいフィルターを通し,発せられた言葉が正しいかどうかを見極めなさいよ!と言っているように聞こえる。



わたしの言い分が長くなってしまったが,そろそろ内容に移っていこうと思う。





認知科学とは,こころの科学であり,外界から取り込んだ情報に処理を加え,一定の認識に至る過程を支える内的仕組みや,心の中に生じた意図に処理を加えて,外界に対して働きかけを行う過程を支える内的仕組み。を指すと説明される。




つまり,外の世界と人間との情報のやりとりを支える内的な仕組みで,心の動きを「認知(cognition)」と呼ぶのである。




英文解釈というものは,文の構造・文章構造の意識的分析をともなう英文の理解のことを指す。英文解釈における日本語の役割は,日本語(母語)と英語(外国語)の文構造・文章構造比較をすることにあり,効果的な解説と理解の確認をするためと位置づけられる。すなわち,英語を学習する際に,日本語の出番が多くなるとわたしは捉えた。




実際の英文理解や発話において,やがて日本語を意識することなく,英語が使える状態になることが目標となっている。いわゆる,直読・直解といわれるものだ。




英文解釈法は,EFL環境下で,日本語から言語距離が大きい英語の学習において,きわめて有効な方法である。




英語を母語としていない人間(大半の日本人)が,自然にてっとり早く英語を身に付けたいと思うならば,以下の代案が考えられる。



1.擬似的なESL環境を作る。イマージョン教育


2.英語の授業は英語で行う


3.子供達を英語文化圏に送る


4.雁パパKirogi appa = goose papa(お父ちゃんだけ日本で仕事して資金を作り,そのお金を送金してもらって母親と子供は英語圏で生活をする。『わたし(女王様)にしてみればそれは家庭崩壊にあたる』)青は私。


5.英語で子育て(最近怪しい啓発本が出ているらしい)


6.どんな子供に育てたいかという親の判断次第(そうしたいなら,そうなされば良いとしかいえない。)





しかしながら,

公教育に関わる学習指導要領に「『英語の』授業は英語で行うことを基本とする」と書かれたのでは黙っておられない。と言われた。



つづく・・・・・