やっと少し時間が出来たので今から講義の内容を書こうと思う。
非常に忙しかった。息をつく間もなかった。
さて,「教師のための言葉ワークショップ」での2日目の8月15日の午前中の講義は,西村義樹先生だった。
先生をご存じない方の為にここで少し紹介。
西村義樹は
1960年山口県生まれ。1983年東大英文科卒、1986年同大学院修士課程修了、1992年東大教養学部助教授(英語)、総合文化研究科助教授、2006年人文社会系研究科言語学専修助教授、2007年准教授。認知言語学が専門。
NHK教育テレビの英語番組「リトル・チャロ」の問題作成をしている。
文法とは何かと聞かれたら何だろうか?
とまず先生の方から会場に質問があった。
私の中にもその答えはたくさんあったのだが,雰囲気的に手を挙げると目立つのでまずいかしらと思って黙っていた。その晩は懇親会があって,ちょっと開放的に学校では身に付けることのないような格好で現れたこともあって,全体の場では目立つのが嫌だったので,有り得ないくらいの静かな聴講生として参加。職場での研修だったら,先生の目の前まで行って指してもらおうとしていたと思う。
会場の誰かが,「それは文章の規則だ。」と言った。
その後,先生が「文法とは文を作るための決まりとか規則とかパターンとかいったものだ。」と言った。
文法など知らなくても母語の場合は伝わるということがあるが,文法は非常に大事なものである。特に外国語を学ぶ上では欠かすことの出来ないものだ。
文法の知識がないとちゃんとした文の組み立てができない。コミュニケーションを重視すると言っているという事は文法も大事にするといっていいのに,文法を軽視するのはおかしい。
と言われた。
私自身も,最近,殊に,コミュニケーション能力,コミュニケーション能力と叫ばれるようになり,コミュニケーションを重視するなら,文法をしっかり学ばないと円滑に行なうことが出来ないのにもかかわらず,一方に偏った主張がまかり通っていることに違和感を感じていたので,本当にその通りだと思う部分があった。
授業を楽しくさせる事は簡単であるのだが,本当の意味で学習者の力を効率的に伸ばしていくには絶対に文法は外せない。現場にいてもそのように感じる。
意味こそ言葉の本質だが,文法自体も意味がある。(この言葉は英語教育界名言集の中に入れておいて欲しい。)
(女王様のたわごと)
日常生活で英語に接することのない地域は,英語そのもののインプットがない。生活の中にないのだ。
だから,一から一つずつ教えてあげないと親切でない。
コガネムシ色のトリカブトのような形をしたヘルメットをかぶって自転車に乗った,モルモン教の青い目をした若者が,「英語をタダで教えますよ。」と学校まで来て宣伝したりしている。予算のない地域では,公的な機関が頼れないので,モルモン教徒に頼むしかないのだろうか?田舎の方では,国がモルモン教,もしくはキリスト教を推奨しているようなものなのだ。中央は全くそのことに気付いていないだろうが。(ある意味,こういう気付きのほうが大事かしら)
教育委員会とか文科省の言語政策に関わっている人達とか,教科書作成者が一番学校教育現場の英語を知らないのじゃないかしらって,こういった専門家の先生方の話を耳の垢をかっぽじってよく聞けといいたい。
俺様とか,あたくしは(特に小学校とか中学校とかの目立って何も出来ない勘違いな人達)とか,英語教育のカリスマだと豪語している陳腐で頓珍漢な英語教師が一番英語を知らないお馬鹿な人だということがよく分かる。特に今はもう現場にいないくせに,過去の英雄だとかに縛り付けられて本質が見えていない人達。自身がしていないことを他人に強いる人達。私(女王様)はいつかその人達の化けの皮がはがれると思っているのだ。
なぜなら,一つの例として,昨日,地下鉄大江戸線の電車の中で女子大学生が,「英語の授業どう思う?あんなの私小学校4年生レベルでやっていたんだよね。大学の授業でないよね。」って友達と話しているのを聞いた。英語教育研究している大学の先生が現場に研究しに来るのではなく,現場の人間に大学の先生方の授業を公開して欲しい。コミュニケーションってどんな粗末なレベルかが表に出れば面目丸つぶれ!これは面白い試みだと思う。絶対現場の先生方集ると思う。これに気付いた大学の先生方,率先してお願いします。( ̄▽+ ̄*)
ちょっと話がずれちゃったのだが,
私は西村先生が好き!
できればもっと堂々と前に出て発言して欲しい。既存の概念を覆すような文法の構造とか最近の研究の流れを常に私達に発していただきたい。そしてそれを元に私達が子供達に教えていくという流れでありたい。(権力的にでなくてソフトなタッチで)
一つだけ,
西村先生のお言葉で,「同じ日本人でも日本語の運用能力は人それぞれ違う。英語の能力がある人は日本語の能力も高い。」とあった。この下線部の部分は本当かしら?ってちょっと思った。だって例外は必ずあるから。それに,ちょっと脅迫めいた言葉だと思われたから・・・・。
だけれども,まぁいっか,
だって,
文法を語る先生の笑顔は,私の小坊主がクロアゲハやカマキリやコオロギを捕まえたときの笑顔に似ていたから。
少年のような笑顔。
その笑顔を拝見したら,先生のおでこにチューしたいような感じになる。
素敵で可愛らしい笑顔。シャイな感じの先生のことが私は好き![]()
(追加で)
やはり先生が「日本語の運用能力が高い人は,英語の運用能力も高い。」という言葉に賛成。
なぜなら,雑誌「英語教育」の内容を書いている御馬鹿な元教員を見るに付け,この人達の英語の運用能力の低さを公表していることとなるので,全くその通りだと思わないわけには行かない。その記事を読んだ関係者がどのような気持ちになるのか,どういうことが予想されるのかが全くない。どれだけの英語の教員のやる気を削いでいるのかも分からないごみ雑誌!権力に迎合して現場を苛める馬鹿雑誌!
なんでそんなものを買うのか私は理解できない。英語教育を真剣に考えている人達は非常に腹立たしく読んでいるはずだ。私はこんな雑誌は絶対に買わない。
教科書も高いレベルのもの出版したり,出版されている辞書も電子辞書の中に採用されていたりするような大修館なのに,「英語教育」の記事だけはどうしてあんなにレベルが低いのかしらと思わざるをえないのだ。
イケイケの雰囲気だけの流れの雑誌など,いつか廃刊になる。
これに対抗するような違う観点から英語教育を語ることの出来る,知性溢れた雑誌が世に出る事を切に望む。メディアの荒廃化が未だかつてないほどに進んでいるのは危険だ。専門家の発言力が弱くなる事は国の存続の有無にも関わるのだ。
そのことに誰が気付いて,誰が動いていけるのかしら。