今日は池上先生の講義があった。
やはり本物の先生は違う。75歳というお年を感じさせない素晴しい講義だった。一杯発見もあり勉強になった。生で著名な先生の話を聞ける東京はいいなと思ったし,近くにいてこういった講座を申し込まない外国語の先生は損をしていると思うから,是非参加すべき。英語の指導法そのものよりずっとためになるし,普遍,ずっと心に残る。
良いものは近くにいると分からない。その価値を見出すことができないのかもしれないが,著書の中のみの出会いしかできない地方の人間にとっては非常にもったいないことだ。
英語教育そのものを真っ向から向かい合って堂々巡りの議論を論じている人たちの話より,言語そのものの可能性が広がって楽しい。外国語を論ずる,もしくは指導する日本語話者のお手本を見たように思う。
そこには自分がどのようなものかを見るために鏡を見る姿はあっても,芸能人気取りでカメラ写りをよくしたいと鏡を覗き見る気持ちの悪い英語教師のような姿はない。本物の余裕であり,本物はこのような方々をいうのだ。
ここで,
池上先生がどんなに素晴しい方かご存じない方のためにご紹介。
池上 嘉彦(いけがみ よしひこ、1934年 2月6日 - )は、日本の言語学者 、東京大学 教養学部 名誉教授。京都府 京都市 出身。1956年東京大学英語 英文学 専修課程卒業、同大学院 修士課程修了。1963年より助手 。以後、東大教養学部 に定年まで勤務。フンボルト財団 、フルブライト 研究員 となり、ドイツ 、米国 、英国 に滞在する。1969年、イェール大学 で言語学の博士号を取得。ミュンヘン大学 、ロンドン大学 客員教授、85年東大教養学部教授、95年の定年後は、昭和女子大学 大学院教授。東大名誉教授。専門は記号論 ・意味論 ・詩学。京都出身だが見事な標準語 を話す。2000年に設立された日本認知言語学会 初代会長を務める。
本当に力があって素晴しい方は決して威張らない,謙虚だ。徳のある方というものは,近くにいるだけで周りもいい匂いがしてきそうなそんな感じだ。なにをしなくても自然に素晴しいのがわかる。無理がなく,お聞きしていて心地よい。自分で自分を一杯に売りだして,嘘をついてまで名前を売ってのさばっているどこかの誰かとは大違いだ。これはまた後で話題にすることとして,
本日の講義内容は盛りだくさんであった。
母語とそうでない外国語との違いを分かりやすく説明してくださったのと単なる言い回しの違いでなく深いところでの把握。
「私の使う言葉って何?どうしてそうなの?」と疑問に思っていた部分の説明。
母語話者として,母語は十分自由に使いこなせるけれども,説明することはできない「そうなっているのだから,そうなっているのだ」と恣意性のものでなく,「実はわけがある。説明が出来る。」という認識を持つ。
我々がいかに言葉というものを普段意識していないかというところを意識する。言葉の意識化をしてみる。
自分自身を意識することの出来る生物はすべてではない。最近は象もできることが分かってきているようだが,鏡を見てこれが自分自身だと認識できるように,いろいろなものをこれが自分だと意識できる生物は高等生物の証拠である。
自身の言葉を意識するには生の体験・感覚が大事となってくる。
母語はひとたび身に付けると,まるで自分の手足を動かすのと同じくらい自由に使いこなせる。これは外国語が頭で覚えている語や規則にしたがって文を苦労しながら組み立てているという意識からなかなか抜け出せないのと対照的だ。
それぞれの場面で自分が母語でするよう習慣づけられている言い方が自然な言い方で,それ以外は考えられないという暗黙の思い込みがあるが,母語以外の言語との接触によって,それまで信じ込んでいた母語の絶対性の神話が揺らぐ。
自己を客体化しない日本語話者と,自己を客体化する英語話者の話は非常に納得し,そのとおりだと改めて思った。自己をゼロ化する日本語話者。
先生の話は,私(女王様)が英語を学ぶ上で感じたこと,経験したことを思い出させてくださった。外国語を学ぶ者は,池上先生が述べられたことを自身も言えるようにしておくべきだと感じる,そうでなければ本当の意味で外国語を学んでいることにならないと思った。
英語と日本語との間には,お互いに明確に訳すことができない部分があり,すべてがすべて訳すことができるわけでないどうにもならない壁がある。これは外国語を身に付けようとする人は誰でも経験したことがあるはずだ。この言っている意味が分からない人は外国語を教える資格がない。これから外国語を学ぼうとしている人たちに外国語を教える資格がないと思う。
あえて,その意味に近いものを選んで伝えることがあることを私もよく分かる。ALTともその話をよくする。外国語を勉強すると自分の話す言葉(母語)の特徴が見えてくるのだ。
言葉は単なる「伝達の手段」ではない。言葉が手段として認識されている限り,言葉そのものは重要なものでないという認識がある。子供にとっては言葉はそのようなものではない。言葉は手段に過ぎないというような軽々しいものではない。
言葉で人は世界が作り出せる。人の持っている想像力を作り出せるのだ。
日本語と英語を比較したとき,英語が論理的になっているように思われるかもしれないが,日本語の方がずっと本質を表現している場合もある。(例をあげて述べられていた。)
日本人は自分以外は見えないが,西洋人は自分自身を客観的に見てそれを描写する。日本人は読む時も聞くときも自分を投入することに慣れている。話し手が誰だと明確にしなくても意味が通じる傾向がある。
私には,一つ,疑問に思ったことがある。
英語も日本語も母語のように使いこなせる人達はこのような違いに気づくことができるのかしらと。
明日も楽しみだ。