教育の市場介入は不要であることは,私自身ずっと言い続けていることである。
30年前からお金を基にして計測しているようになってしまったのが,教育への市場介入だ。ビジネスマンがビジネスの論理で教育活動を語られるにつれて教育は劣化する。
ほんの5年ほど前に,ビジネスマンが教育したらどうかということが叫ばれ,ビジネスマンが経営する大学があちらこちらに出来始めた。
しかし現在は福岡のサイバー大学のみが生き残り,全国14箇所にキャンパスを設けたリーガルマインド大学は今年に入って破綻。2004年の設立からわずか5年での倒産となった。
経営の専門家がいて大学経営に失敗した。なぜ失敗したかを語られることも無く,中教審は頭が悪いから,同じような大学をまた新たにつくろうとしている。
教育にビジネスを持ってきたら,なぜ失敗するのかということをよく語られもしないままに同じことをしても失敗する。
文科省の人間の中には本当はやりたくない人もいるのだが,政治家・財界に押されて仕方なくせざるを得ない状況もあるのは可愛そうだ。
だから,文科省内部は混乱している状況がある。
僕はシラバスっていうものは教育効果とは全く相関性がないと思っている,0だ。シラバスが全て揃っていないというだけで,2000万円の助成金を国からカットされた大学もある。シラバスは手間がかかって時間ばかり費やすわりに効果はまったくなし。
大学の授業も今は休校にしたらあとでその分の補習をしなければならない。補習をしていない大学は,補習をしろと言われ,卒業した生徒までが呼び出されて授業を受ける始末だ。
社会システムの中の教育は,このような種類のことを指すのではないだろうか?
まだ自分の身に起こるかどうか分からないけれども,何か起こったときにどうにかできるのだということ。もしくは,この人に着いて行ったら大丈夫というものが,まだ経験したことのないことが,実際起こったときにどうすればよいか分かるということなのだ。
微弱な情報能力,ラインのちょっと下のところにあるからだが無意識に反応するこの能力は,言葉ではっきりと示されるものでない。
東郷平八郎は運のいい人間だと言われていた。しかし,彼がどうしてそのように言われたのかということを考えてみると,以下のような会話の中に彼の考え方が象徴されているように思うのだ。
ある人から東郷がこのように言われた。
「道を渡るときに,(通っていく)馬を怖がっていては武人に恥じるのではないか?」と。
それに対して東郷は応える。
「馬を怖がらずに蹴られて大怪我をするほうが武人として恥である。」と。
運のよさというものは,危険なことが起きないようにする能力でもある。
しかし,そういった能力と言いうものは,教育効果として発揮されない。
現在は,その危険なことを察する能力が弱まってきている。
数と言うものは非常に分かりやすく他に示しやすいが,教育を数値化しようとしたら,それは100%の内のほんの1%だ。その他の99%,すなわち生き延びる力,協調性,共生力は数値化できるものでない。
高度に人間社会を生き延びるには,コンテクスト(前後の関係,文脈,背景,状況)が大事。そんなつもりで言ったのではないということ。こういう風に解釈した。ということが天秤にかけられれば,こういう風に解釈したということに重きを置かれているようになっている。
微妙なやりとりができず,本能的に自分が最も傷つくような不愉快なシグナルをとることは非常に危険。非言語的な解釈が出来なくなる。自分の送るメッセージの解釈などしなくてよくなっている現在の状況がある。
古代人が限られた環境・道具の中生き延びることができたのは,「これは,今は役に立たないかもしれないが,いつか役に立つかもしれない。」という感覚なのだ。
僅かなリソースしかもっていないときものすごく頭の回転が速くなってくる。
ありとあらゆるRISK(危険)は何千何万とあるが,これは何に役に立つか分からないけれども,何かに役に立つだろうという感覚でいれば,危険が実際の身に降りかかりそうになるときそれを回避することができる。
今の子供達が一番ないものは,「これは,今は役に立たないかもしれないが,いつか役に立つかもしれない。」という感覚。これは自分自身が生き延びることを妨げる状況を自らつくってしまっているのだ。
今の子供達は,努力と報酬の相関性を要求する。
これだけ努力したのだからこれだけの報酬があってしかるべきだと。
だから,報酬のない努力はしなくなってしまうのだ。
これを追求していけば,何のために勉強するのかがわからなくなってしまう。自分自身の目的まで見失ってしまう。
社会性の極めて低い人間がいき上がってしまうような社会,それを構造的につくり続けている鈍感で無分別で愚かな社会は全力して阻止しなければならない。
学生にしても,できるだけ覚えることが少ない教科を自分で選ぶ。出来るだけ疲労しないで済むようにするようにする風潮は良くない。
最近本当に周りでよく言われているのが,一流大学での馬鹿。「お前,こんなことも知らないのか。」という人が多くいること。本当に恐ろしいほど何も知らない。一流の大学を出て,一流の企業に勤め,消費者の論理で言えば,大して勉強もせずこれだけのものを手に入れられたということになろう。私が本気にそのように言っても,むしろそのことを自慢話に変えてしまう。笑みさえ浮かべるのだ。
この数値化できないものは,無数の言葉にできないものだ。
そこで何が起きているのかどんどん理解できなくなる。
(続く)
(女王様)
内田先生を各県の英語科研究会にお呼びして話をしていただいたほうがいい。本質的で大事な部分に私達は耳を傾けていくべきであり,そこから突破口が開かれると確信できる講演だった。
英語教育研究会は内田樹先生をお呼びして皆で勉強会を催すべき。
私自身,少しばかり成熟した大人に近づけそうだ。
フランスに行くと先生みたいになれるのかしら?年に何回かは訪れるらしいので・・・。
益々,Kねーさんが羨ましい。だって,内田先生みたいな人が万といるのでしょ?そこいらのパブでそういった話をしているのでしょ?憧れるぅ!
Kねーさんがフランス好きになったのもそういうところからなのだろうな?
食卓でよく議論するといっていたから。
やっぱ,フランスでしょ。