子供達をわかるということ(臨床心理士の先生の話より) | 女王様のブログ

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「子供達をわかるというとこと」昨日の臨床心理士のY先生の話


発達障害を持った子供達とともに主に関わってきたこの方は,臨床心理士のお仕事を,「心とは何かという問題」から発したものだと言う。


昔は,カウンセリングなどなく,現代のように子供達をいろいろと分析しなくても子供は育っていったものだった。自分自身は少なくともそうであったと先生は言った。(お歳は55歳よりも上だろう。)


現在,非行・草食系(先生いわく,これは発達障害らしい)・ひきこもり・ゲーマーと言われる若者達がいるが,彼らがどのような心理状況で,どのような行動をとるのかを理解していくということだった。


西鉄のバスジャックや秋葉原の通り魔事件など,残忍な犯行に及んだ若者の心理状況を分析されていた。バーチャルの世界と現実が分からなくなり,生身の人間とどのように付き合っていったらよいのか分からなくなってしまっている若者がいると。


私は,内藤朝雄さんの文を読んで全然違う見方があることを知っていたので,少しクッションを置いてここの部分は聞いていた。


Y先生が,


「先生方は,先生方の子供であったころの子供と,今の子供達は変わったと思いますか?それとも変わっていないと思いますか?」と私達に聞いた。


それぞれ,皆思った方に手を挙げた。変わったと思う人達の方が少し多かったように思う。


産まれた時は,人間は今も昔もさほど変わらないといえるのだが,大きくなるに連れて変化が出てきて,特に小学校4年生あたりから顕著な変化が見らるということだった。


人は物品をお店で購入したときに,普通はお札をお店の人に渡したらお釣りが帰ってくると当たり前のように思う。これは,相手を信じているからで,人を信じることが出来ない人はお釣りがもらえるかどうか相手を疑いレジを覗き込むと。


人を信じることができるか出来ないかは,その人の器によるということだ。


現在は,その子供達の器の作られ方が変わってきている可能性がある


「いじめ対策プロジェクト推進委員会」なるものが,県庁内で行なわれたとき,小学生から高校生までの子供達が集った。


司会者が,「いじめはどうして起きるのだろう?」と問うと,ある高校生が機関銃のようにいろいろと話をしたらしい。この話ももっともな感じではあったのだが,報道陣等に囲まれながらの会であったため,少し意識をした発言のようにもとれ,そこに居合わせた大人たちの心にはあまり残らなかったそうだ。


しばらくして,それまで恥ずかしがって様子を見ながら何も言い出せずにいた小学校5年生の子供がこういった。

「幸せがないからだよ」 同い年の別の子も,「楽しみがないからだよ。」と。

この言葉は,それを聞いていた大人たちの心に残るものだったそうだ。


「甘い」を経験するには「苦い」経験が必要で,

「好きだ」と思えるようになるには,「嫌い」と思う経験が必要

「仲直り」を経験するには,「喧嘩」が必要となるのだが,


今の子供達にはそのような生の経験が少ない傾向にある。


本人に成り代わって経験することを「代理自我」と言うのだが,本人の代わりに親が先取りしてやることも指すそうだ。

先手先手で根回しし,本人が困らないように何でもかんでも与えすぎることによって子供達の幸福感を奪ってしまっている。時には借金までして子供のためにしてあげる親もいるほどだそうだ。


親が,子供が困らないようにすることによって,困れない人間,困った人間を生み出してしまっている。


子供達の器の作られ方が変わってきているということは,どのように人と付き合ってよいか分からなくなるよう,生身の人間と付き合わないで済むという事情が裏にあるということだ。


例として,言葉を交わしていれば直ぐに応えなければならないところでも,メールであればすぐに返事をする必要がない。返事を無視することも出来るし,自分の気が向いたときに返事をすればよいという都合の良いコミュニケーションの仕方も,子供達が生身の人間と向かい合い,人間関係を学び訓練する機会を奪ってしまっていることもある。


学習指導要領というものは,子供達の器が年相応にきちんと作られているということを想定して作られたものであるから,その器のないものは同じ事は出来ない。


子供達の器は,家庭環境など様々なもので形作られていくのもであるが,家でその器を作ることができない子供の親が,その器自体を育てることを教師に要求されるような時代に変わってきている。


だから,教師の側はできるところからチェックしてあげる。人の闇をつっつくのは簡単で,皆得意とすることだが,分かった上でこちらがすることを設定してあげることが望まれるらしい。


Y先生は,電車の中刷り広告の例を上げた。

電車の中刷り広告は,電車に乗る人々のお守り代わりなんですよ。人と人が,目が合ってしまうと気まずいから,だから視線をそらすためのお守りなんですって。


それと同じように,


以前,右手に少年ジャンプ,左手にゲーム機をもった高校生の男子が,頭をぐるぐると回しながら(不良少年が粋がってやるように),母親に連れられて診察しに来た時の話をした。


彼にとっては,漫画本もゲームも他人と関わりを持つときの「お守り」なのだと言っていた。


人と向き合うときには目を合わせることが大事だとY先生は言う。

目を合わせると自分の中の感覚を呼び覚ましてくれると同時に相手の感覚も呼び覚ますことが出来る。


彼は,最初お守りを持ちながら言う。


「むかつく!」と。


そのうち,言葉数が少なくなって,


「きれる!」と。


最後は,物を投げる,蹴るとまるで2歳児のように振舞ったようだ。


「感覚は感情になり言葉になる」


言葉になるまでの道のりは険しいかどうかはその子供にもよる。


子供達は,言葉で自分を表すことが出来なくなってきているのだ。


言葉に出来る人はまだ大丈夫。出来ない人が問題。


大人であるあなた自身はどうですか?


言葉で自分自身を表現できていますか?と


私はこの言葉は子供だけに限らないと思う。むしろ,大人が出来ていないから子供も出来ないのかもしれないと感じる。


私達が生きるということは,


選び → 試し → 味わう → 決める → 尻を拭う(責任を取る)


ということの繰り返しではないだろうかとY先生は言う。


時には,耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍ぶことも大事。


高校時代の子供達は,自分が何をしたいかを考え,考え方や思想でお互いが結びつく時代であり,そこから仲間を作り,グループを作り,その中での決め事を自然と身に付けていく



子供であることは守られる。だから,S40年代には,モラトリアム時代なるものがでてきて,4年間で自分の人生が決められない人がもうすでにいた。その人達が育てたのがフリーターだとかニートだとか言われる若者なのだそうだ。


感覚 → 感情 → 言葉


感情までは親がする仕事だが,言葉にするのはその子自身の力による


言葉に出来る人はまだ大丈夫。出来ない人が問題。


高等学校の授業を,子供の器に合わせてしたら,6時間目までいる子供は,40人中8人になるかもしれない。


カリキュラムは,それ相当の器が出来ているということを前提に成っているのだ。


私はY先生の話を聞いて,気持ちが楽になった。

英語教育に関する私の中に,常に付きまとう強迫観念が少し緩んだ。


先生のような講話が,もっと聞きたいし知りたいと思った。


言葉で表現する力を身に付けていくことが,社会で生きていく力にもなりうると信じて,


さて,私はこれからどのように課題に向き合っていこうか。