これは,女王様がニューヨークを訪れたとき立ち寄ったロックフェラーセンターで撮った写真です。
ロックフェラーは石油王です。
日本人はあまりよく知らない人が多いので,ここに詳細を述べます。
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーは、 ビンガムトン(Binghamton)の北西20マイルほどのニューヨーク州 ティオガ郡 リッチフォード でウィリアム・エーヴリー・ロックフェラー (1810年11月13日 - 1906年5月11日)とその妻イライザ・デイヴィソン(1813年9月12日 - 1889年3月28日)の6人の子供の2番目として生まれた。1853年に一家はオハイオ州 クリーブランド に転居し、ここでロックフェラーは1855年に記帳係として働き始めた。1858年に彼はモーリス・B・クラークと共にクラーク・アンド・ロックフェラー社を設立し、同社は1862年に製油会社に投資を行った。しかしクラークと対立したロックフェラーは、1865年に持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解散し、精油事業(彼の会社が持っていた精油所は、処理能力が1日に原油500バレルであった。)を72,500ドルで買収した。その買い取った権利を基にロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立した。
さらに同年、第二の精油所スタンダード・ワークスを設立し弟のウィリアム・ロックフェラー を社長にした。しかし、この頃から鉄道会社からリベートを受け取るようになる。1867年にロックフェラー・アンド・アンドリュース社はこの精油所を吸収し、ヘンリー・M・フラグラー が経営に参加した。さらに規模を拡大するために、1870年にロックフェラー兄弟とフラグラー、アンドリュース、スティーヴン・V・ハークネスがスタンダード・オイル 社(w:standard oil-ohio (sohio) ソハイオ)を創設し、ジョン・D・ロックフェラーが社長に就任した。世界最大の間接権力を手に入れた。
1870年代の初めにアメリカ製油業史上における二人の開拓者、チャールズ・プラット とヘンリー・H・ロジャーズ はサウス・インプルーブメント社との不名誉な闘争に巻き込まれることとなった。それはペンシルバニア鉄道(PRR)および他の鉄道会社から秘密裏にリベートを受けとったことに関するものであった。ロックフェラーとサウス・インプルーブメント社の共謀はペンシルバニア州 西部の独立した石油採掘業者および製油業者の憤慨を呼び起こした。
ニューヨークの精製業者によるサウス・インプルーブメント社に対する反対活動はロジャーズによって率いられた。ニューヨークの精製業者達は協会を組織し、1872年の3月中頃にチャールズ・プラット・アンド・カンパニーの代表としてロジャーズを含む三名の委員をオイル・シティの石油業者組合の顧問に送り込んだ。彼らはペンシルバニアの独立石油業者と共に、PRRおよび他の鉄道会社からサウス・インプルーブメント社との疑わしい取引を終了すると約束する協定を取り付けた。ロックフェラーは既にスタンダード・オイル社を組織し始め、他のアプローチに忙殺されていた。その中には反対者の買収も含まれていた。
その後はカルテル の経験から買収を進め、企業協定ではなく企業合同を実現させようとした。しかし、巨大化していく過程で法人化した企業は法人格の付与を行った州の外では資産が所有できないという法的障害を抱えるようになった。そこで、主要な事業をしている州すべてに別個にスタンダード・オイル社を設立した後にトラスト協定を書き上げ、それらの会社の株式を受託者に預託し、株式を共通化した。そして、その預託者による理事会を創設して巨大なグループにまとめあげた。さらに、グループ経営を円滑にするために経営委員会を設置した。この経営委員会が理事会にかわってグループの実際の経営を行った。この委員会の下には輸送やパイプラインなどを担当する専門委員会があった。
ロックフェラーは協力と統合の計画を持ってチャールズ・プラットに接近した。プラットはロジャーズとロックフェラーの提案について話し合い、彼らは統合が利益になると判断した。ロジャーズは条件を文書化したが、それはプラットと自分への金融的保証と仕事の保証をその内容とするものだった。ロックフェラーはロジャーズの申し出を受け、チャールズ・プラット・アンド・カンパニー(アストラル・オイルを含む)はロックフェラーの事業に加わる重要な独立製油業者の一つとなった。プラットの息子、チャールズ・ミラード・プラット(1858 - 1913)はスタンダード・オイルの重役に就任した。ヘンリー・H・ロジャーズはロックフェラーにとって重要な人物の一人となった。
スタンダード・オイルは、徐々にアメリカ国内で石油生産の支配権を獲得した。巨大な利益を消費者に還元せず高価格で販売し続けたそのビジネス手法は広く厳しく批評された。批判の声は各州で独立製油業者が組織し始めた1882年まで増加した。そして数年後には、スタンダード・オイルは反トラスト運動の格好の目標として攻撃された。
その後も着々と同業者の買収を進めていき、原油生産から石油精製、小売に至る石油に関する全部門を支配した。その結果、スタンダード・オイル社は石油市場の90%を支配するに至った。しかし、世論は次第に「反独占」「反トラスト」へと向かい、1890年にシャーマン反トラスト法 が成立し、政府も世論と同じ態度を取るようになり、スタンダード・オイルに対して反トラスト訴訟を起こし、1892年にオハイオ最高裁判所からトラスト協定を破棄すべしとの判決を受けた。しかし1889年にニュージャージー州 で州内の法人が他の法人の株式の所有を認める法律が成立したため、この法律を使い再編成が可能となった。それはトラストを解体し、ニュージャージー・スタンダード・オイル社に全米にある系列会社の株式の全部又は大部分を所有させ、合法的な持ち株会社にすることであった。この再編成の結果、全国規模の事業展開が可能になる上、トラストに対する攻撃に対しての緊急避難口となった。
しかし、スタンダード・オイルに対する批判や訴訟は依然として多く、特に1904年のイーダ・ターベル による『スタンダード・オイルの歴史 The History of the Standard Oil Company』出版後にはその攻撃の声は高まり、ついに1911年5月15日にアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイル(64%の市場占有率を保持した)が市場を独占していることで解体命令を下し、同社はおよそ37の新会社に分割された。現在あるエクソンモービル 、シェブロン は旧スタンダード・オイルが前身になっている。
ロックフェラーは1895年に事業から引退したが、1911年まで社長の職に在籍した。かつて彼は、鉱山およびスペリオル湖 での鉱石運搬船を含む大きな製鉄会社を保有していたが、U.S.スチール 社にそれらを売却した。
さらに彼はチェース・マンハッタン銀行 に重要な役割を果たした。
1901年までに彼には約9億ドルの資産があり、当時の世界における最も裕福な人物であったと考えられる。インフレ調節された彼の純資産は、現代の億万長者トップ20人の中に入る。
- なお、2001年段階でロックフェラーの財産を現代の価値に換算した場合、2,000億ドルに上ると推測される。
ロックフェラーは1864年9月8日にクリーヴランドで教師のローラ・セレスティア・スピールマン(1839-1915)と結婚した。夫妻は四人の娘と一人息子をもうけた。ベシー(1866 - 1906)、アリス(1869 - 1870、幼くして死んだ)、アルタ(1871 - 1962)およびイーディス(1872年8月31日 - 1932年8月25日)の四人の娘と、末っ子の一人息子ジョン・ロックフェラー2世 (1874-1960)。
ロックフェラーは強いバプテスト 信仰に従い慈善事業への寄付を常に行ったが、その評判は事業活動を行っていた間は芳しくなかった。彼は1910年3月3日に事業管理からの引退を公表し、慈善活動に没頭した。彼はその死までに約5億ドルを慈善に投じ、相続税を免れた。彼は初期の科学的な医学研究への最大の個人的後援者として著名である。彼は1890年にシカゴ大学 を創立し、1901年にはニューヨークにロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学 )を創立した。また1902年には一般教育委員会、1913年にはロックフェラー財団 、1918年にローラ・スピールマン・ロックフェラー記念研究所を設立し、同様に他の機関にも多くの寄贈を行った。彼の500万ドルの寄付はグレート・スモーキー山脈国立公園 設立の支援となった。
ロックフェラーは自らの一族に莫大な生前贈与を行い、とりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・ジュニア には多くを与えた。結果として一族は20世紀のアメリカで最も豊かで最も影響力を持つ一家となった。彼は1937年にフロリダ州 のオーモンド海岸で死去したが、そのとき巨額の財産のごく僅かしか持っていなかった。
ロックフェラーの孫、ネルソン・ロックフェラー はジェラルド・フォード 大統領 の下で副大統領 に就任し、もう一人の孫ウィンスロップ・ロックフェラー はアーカンソー州 知事に就任した。彼の曾孫ジョン・ロックフェラー4世 は現在アメリカ合衆国上院 議員である。 ヨーロッパで人気のあるディズニー キャラクターのジョン・D・ロッカーダックは、ロックフェラーの慈善事業に因んで命名された。ロッカーダックは通りにいる人たちに光る新しい硬貨を分け与える習慣を持っている。
アメリカのお金持ちは,寄付がステータスです。
前,女の子がいた時代の職場に,
「私は将来,寄付が趣味になるような暮らしをしたい。」という女学生がいました。
今何しているのかしら?
寄付始めたかどうかぐらいは知りたいです。
