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INDEADRUM

ぐずらもずら

人は、いったい、何を思い出すのでしょう。


いろんなこといっぱいやってきて、初めてのこともまだまだあって、でも世界にはニュージーランドしかいったことないな。


日本も、全部いったわけじゃないし

まだまだ、未踏の地はたくさんある。


心底、幸せだと思う日や時間もあれば、もういーかな、十分かなー、と思ってしまう日もある。


素晴らしい人たちと出逢って、素晴らしいこともいっぱいあった。


20年前と変わらず、夕焼けを見て、美しいなぁ、とも感じるし、心があっちこっちに揺り動かされる日もある。


大切な人やお世話になった人が亡くなったり、悲しみも絶望も、同時に感じている。


何を言いたいかも、どんな理由かも分からないけれど、とにかく、飯を食べて、働いて、矛盾と憤りを感じながら、かけがえのない友とかけがえのない時間を過ごしたりしている。


何周も回って、言いたいことも口の中にしまいこんで、若い力に主張をまかせたいこともある。


森や山に佇む木のように、風に吹かれたり雪に耐えたり太陽を浴びたりしながら、静かに暮らしていく。


そんな理想は、いつまでも叶えられないかもしれないな、なんて思うけど、悲観しているわけではないよ。


美しいものや心は、まだ生きている。


終わり朽ち果て、また新しく昇ってくることでしょう。


何回もいってるかもだけど、意味も理由もないんだ、きっと。


明日はどっちから風が吹くだろう。もしも、あたったのなら、嬉しいな。

「本当の孤独、限界というものは、自分が思ってるもっと先にあって、明日生きられるか分からないというようなところで、初めてその自分と意味を知ることになる」

東日本大震災で出逢った旅人がこのような類いの言葉を使っていた。

 

10代のころから今の今まで、ずっと孤独というものと対峙し、向き合ってきた。

孤独感は今に始まったことじゃなく、数十年と付き合っている。

 

別に後ろ向きな、ネガティブな側面で孤独というものと歩んでいるわけではなく、自分のやっていることなど、誰にも理解されずとも、取り上げられなくても、表舞台に出やしなくても、強度を上げていくというのか、純粋に深く深くマイノリティに溶け込んでいくというか、自分の表現の行き着く先を、自分自身が見たくて、たとえ日の目を浴びずとも、粛々と淡々と細々と追求していくことを、自分のペースで、ある意味、ゆっくりとストイックにやっていくことを、いつの間にか選んでいる。

 

いろいろと感じてきて、一旦疲れたりもして、訳が分からなくなって戻ってきたところで、シンプルに単純に、その行為を好意的に楽しみ、様々な側面から、制限のある自由をおもしろいと思える時は、あと数年であるという予測と共に、そのときが来るまで、ひたむきに望むという姿勢を忘れずに持ってさえいれば、8の字のように無限のメビウスの中で、芯はブレずに進んでいけるのだろうという何か、不思議な喜びを感じて、また沼に帰っていくというような気持ちで、お天道様の下で、極陽のここを、陰性の果物でも食べて、中庸にしていきたいと思う今日この頃である。

あれもこれもと、THE BLUE HEARTSじゃないけれど、やりたいこと、やってみたいことがあって、全然いろいろ追いついていない。

 

やりたいことといっても「おいしいものを食べにいきたい」「〇〇に行ってバカンスしたい」などということじゃなく。

 

今のうちに、伝統芸能とか、地域の文化を、自分のできる範囲で、おしつけがましくなく、自然にふわ~っと伝えるためにはどうしたらよいか、とか。

 

口や文章でなかなか伝わらない地元・鳴子のよさを、どうやって周りに伝えていこうか、とか。

 

「こんなに魅力的な場所なんだ、この地は」ということを、子ども達に楽しく感じさせるためにはどうやったらよいか、とか。

 

そして、音楽をとおして、それらを伝えていくのが、自分らしいんじゃないか、とか。

 

別に大それたことをやりたいわけではない。

 

人それぞれの、意識を変えるきっかけを作りたい。

 

歌で、音で、各地の祭りで、ぶっとんでる人間や世界や自然や大地から、自分が感じとってきたものは、正しいかどうかわかんなくても、まちがいでもないし、とても素敵なことだって実感している。

 

与えられた情報を鵜呑みにして、当たり前のように生きるんじゃなくて、自分で考え、足を運んで、目で、耳で、口で、体で感じたことを大切にしてもらいたいというかなんというか。

 

だから、どんなに小さい祭りでも、続けていかなきゃいけないと思っているし、どんなに小さな祭りでも、その火を消しちゃいけないと思っている。

 

誰が、どこで、どうやって、心に響くのか。時間、場所、空間、楽しさ、夕暮れ、朝日、山、川、海、それぞれのシチュエーションで変わってくる。

 

福島の満月祭も、いまだに行けていないし、橋の下世界音楽祭にもまだ行けていない。今年、12年ぶりに開催されるいのちのまつりにも、おそらく行けないだろう。

 

自分の小さいまつりでも、いままで、どれだけのことをできただろうか。やりたいことは、3パーセントくらいしかできていない。

 

自分が中心じゃなくてよい。この国の行く末を危ぶむ1人の日本を愛する者として、地元を愛する者として、伝えていきたいことが山ほどある。

 

表現の仕方も下手くそだし、やり方もスマートじゃないし、効率だって悪いのは自覚している。

 

だけど、気持ちだけで、心だけで、何の才能も取り柄もない人間が、何かしたくて動き出す、得たいのしれないパワーがあったってイーはずだ。

 

まだまだやりたいことはある。けれど、もしかしたら、明日死ぬかもしれない。

 

1人でも二人にでも、何かを感じ取ってもらいたい。みずから考え、みずから行動する人間であってほしい。

 

人間が人間であってほしいと願っている。