「説教」と言われることを、私が子供
のころにはいう人が結構周りにいました。
それは、近所のおじさん、おばさんから
学校の先生や友達の親、そしてなにより
自分の親。
子供のころを考えると、かなりの人が
自分に説教をしてくれました。
その時は、嫌な気持ちになりましたが、
今となってみると、いい人生の「先生」で
あったと思えるようになりました。
外から帰ったら、「うがいと手洗い」を
必ずするとか、細かい事をよく言われた
事を覚えています。
今の時代とは大きく違い、間違っている
事をすると、「怒鳴られて」しかも「ぶたれる」
ことは、当たり前でした。
それが親だけでなく、近所のおじさんでも
学校の先生でも。
「体罰」は、今はほとんどないと思いますし、
やってしまった先生は、ニュースになっていたり
します。
そんなの25年、30年前は、当たり前だったと
思っています。今思い返してみても、間違って
いる教育とは、私個人としては、思いません。
行き過ぎた「行為」だけは、いけないと思う
くらいです。
今は、手が出るだけで「行き過ぎ」ってなる
ようですが、けがをさせない程度の「体罰」は
むしろ必要と感じているくらいです。
現在の教育現場にいるわけではないので
なんとも言えないですが、むかしよりも先生と
生徒との間に 「見えない壁」 を感じて
しまいます。
そんな時代の流れを感じてしまっていますが、
大人になってから、自分にストレートで「説教」
とまでは行かないにしても、自分の行動や言動
にいいとか悪いとかの「指摘」をしてくれる人が、
いるでしょうか。
子供のころと「説教」とはちがい、おとなに
なってくると、子供のころにはあったもので、
なくなることに「素直さ」があると思います。
自分の経験や見聞で、自分の中に
「固定概念」が生まれるので、それと
引き換えに「素直さ」を失っていきます。
その理由で、歳とともに「頑固」に
なっていくのかと。
しかし、それが落とし穴であり、
自己成長を止めてしまっている最大の
原因になっています。
大人になってからも、「耳の痛い」こと
言ってくる人も、中にはいると思います。
あなたの周りにも、必ず一人くらいは
いないでしょうか。
それが仲のいい友人でも、同僚でも
飲み仲間でもおとなりさんでも。
「説教」とまでいかないとしても、
「指摘」をする人がいるかと思います。
もしも、その人に「耳の痛い指摘」を
言われたときに、その「指摘」を100%
流してしまっていないか。
社会人になってから20年ほどが
過ぎますが、私も99%流していたと
思います。
むしろ、聞いていないことがほとんど。
しかしその「指摘」は、自分にとって
必要なことが必ず、「ちりばめられている」
ってことに気が付きました。
これも100%鵜呑みにするってことではなく、
「説教」とか余計なお世話とか思わずに、
とりあえず聞いてみる必要があるということ。
どんな人に言われた「指摘」だとしても、
一度考慮してみる「必要」があるってことです。
何かしら自分の「不」を言われていると
思います。
その「指摘」は、自分で認識するチャンスである
と思うようになりました。
大人になると、「指摘」してくれる人は間違いなく
減ります。
何かに「気づくチャンス」も減ってくることは
間違いないです。
それと同時に、「頑固さ」が強くなり、「素直さ」が
なくなっていくから、成長がしにくくなります。
なので、言われた「人」を嫌いになったり、
うざいと感じる前に、「聞いてみる事」を
意識するといいかと。
それも鵜呑みではなく、自分で判断する
ことも忘れずに。
いつもいつも「説教」や「指摘」を言う人も
面倒ですが、時に「指摘」してくれる人を
大切にしたいです。
どこかに改善すべき自分の「不」が
あるかと思います。
意識してみると意外とあると思いますよ。
意識がないと、「うざい」とか「めんどくさい」
とかほんとに「耳が痛い」って事になります。
言われすぎだと、言い返せばいいですし、
ふと言われた「指摘」には、注意をしてみる
といいと思います。
自分のことが、少しわかるかと思います。
ありがとうございました。
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