私は今、愛とか神と言った言葉を当たり前のことのように使っているが昔は強い抵抗があった。おそらく未だに多くの人が抵抗を感じているのではないか。だが自分で実際に体験してみると抵抗感は消えるに違いない。

 

本当の愛(純粋な愛)を体験すればきっと愛の概念は変わる。そうすれば抵抗感は消える。
愛は人から教わるものではなく自分で体験して知るものだ。(本当の)愛を知らなくても体験すれば誰もがそれが愛だとわかる。それは心の内から湧き上がる歓喜であり、不思議で崇高な感覚であり、明らかに感情とは異なる。その感覚に触れれば誰もが直感的にそれが愛であることを知るだろう。

 

 

宗教や世間一般に言われる愛は愛であるが愛ではない。本当の愛を知らない者が愛を語り、愛について勝手な定義づけをする。神も同様だ。擬人化し善悪というくくりを設け罰を与える存在とする。愛を唱える者が愛を知らないのだ。これでは先日述べたように波動が伝播して他人を変えることなどできない。だからそこにうさん臭さや偽善の臭いを感じてしまう。神は決して罰など与えない。神が与えるのは愛だけである。


愛は波動である。だから自分で体験、つまり同調してみないとわからない。波動が支配する世界ではすべてが体験によってのみ知ることができる。言葉では決して知ることができないのである。

 


私もまだ完璧ではないので理解の及ばないところが多いが愛を一言で言えば「神の意識」である。意識は振動している。この振動(バイブレーション)こそが神であり愛でありすべての創造の基になっている。


この世界(宇宙)は神(創造主)の意識によってできている(*1)。すべての物質も神の意識が転化したものだ。つまり存在するものすべてが愛であり愛以外のものは存在しない。当然ながらそれは三次元物質界に限らない。すべての次元世界がそうだ。

神は振動(バイブレーション)を落とした。その過程で様々な次元が生まれた。最も振動数の高い純粋な意識(神そのもの)は十二次元といわれており、逆に最も振動数を落とした次元が三次元物質界である。


本来の愛に触れれば我われは喜びを感じる。純粋な愛に近づけば近づくほど喜びは大きなものになる。喜びのレベルは様々である。これこそ体験によって知る最も素晴らしいものである。

高次元になればなるほど(純粋になればなるほど)喜びは感動的なものになる。その愛は三次元のいかなる言葉をもってしても表現することはできないだろう。
一方で、本来の愛から離れれば不快感や不安といったネガティブな感情を得る。離れれば離れるほどそれらは大きくなる。
喜びにしろ、不快感にしろ、こうした感情は条件反射(*2)ではなく心の内から自然と溢れ出るものだ。我われの魂が本来有しているものだ。愛に近づけば喜びを感じ、離れれば不快感や不安を感じるのは我われが神であり愛でできているからに他ならない。


物質界でなかなか愛を感じ難いのは二元性によるところが大きいだろう。二元性によって二元論的思考が生まれ愛のエネルギーを感情のエネルギーに変えてしまうからだ。

愛は一元性のものである。二元論的思考では理解できないし、これから生まれる感情は愛の本質から大きくずれてしまう。

人間が本能的に自然を求めるのはそこに本当の愛の波動を感じるからであろう。自然には本物の愛が息づいている。
 

(*1)私も神には遠く及ばないが似たような体験は何度もしている。意識を放つことによって世界を創造する。創造の基は(おそらく)プラーナ粒子でありこれによって空間が生まれる。プラーナ粒子はホログラムを形成する。そうしてできた世界は物質界と全く同じ世界でありそこには人間もいる。人間も創造できるのである。私は自己の意識を分離させてこの世界を探索するのである。

 

(*2)人は過去の感情体験から特定の感情パターンをつくり上げる。感情パターンは感情の条件反射である。それは感情体に記憶され、特定のシチュエーションに遭遇するとその感情が現れるのである。意識していないと条件反射で何度も同じ感情パターンを繰り返すことになる。