二極化は完了したのか。

2025年に完了するという声も聴くが私にはわからない。

だがいずれにしても既に今までとは全く違う世界があり、そこで生きている人は少なくない(と感じている)。

 

前にも述べたが現在、我われ人類は統合のゲームに入っている。分離のゲームは終わったのである。人類は永い間、創造主の基を離れ分離のゲームに没頭してきた。未知を求め二元性の世界を探索してきた。

そして今、再び創造主の下へ帰還する旅が始まった。一旦下げた振動数を再び上げるのである。これがアセンションと言われるものだ。


ここで求められるのは自己の振動数を上げること。これ以外にない。これがすべてである。他人は関係ない。

そもそも他人を変えることなどできない。変えることができるのはその人本人だけだ。馬を泉の畔につれていくことはできても水を飲ませることはできないのである。


ではいかにすれば他人(ひと)を泉の畔に連れていくことができるのか。それはまず自分が変わることだ。これが波動の世界の原則である。最初に自分が行動する(変わる)。それによって自己の波動が伝播して他人を変える(機会を与える)。

そのためには自分の行動(動機)が純粋なものでなければならない。純粋でなければそれがあるべき波動として機能しない。何の見返りも求めない無条件の行動が相手を動かす原動力になるのだ(*1)。

別の見方をすれば、この他人を泉に導こうとする行為、それは他人のためではなく自分のためにやっている。自分の(波動を上げる)ためにやっている行為が結果として他人を動かす。すべては自分が中心なのだ。決して他人のためにやっているなどと思い上がってはいけない。


 

以前、私が最も嫌悪感を覚えるのは偽善であると申し上げたことがある。偽善とは自分を変えずに、自分を棚に上げて相手を変えようとする行為である。

今、私は自然と湧いてくる自分の感覚や直感が正しいことを知っている。一見すると常識から外れているようなことであっても自分が正しい。だがほんの数年前まで私は自分が間違っていると思っていた。


政治、経済、国際情勢、自然災害、戦争、事件、事故、etc. これらに対して私は何の感情も起きない。ただそれらを観察しているだけだった。私は周囲で何が起ころうと関心がなかった。私はこうしたものに同調してしまうことの危険性を本能的に知っていたのだ(*2)。

また、世の中に貢献する仕事がしたい、世の中の役に立ちたいと言う人がいる。私はこうした人たちになぜか共感できなかった。ボランティアやチャリティーもそうだ。当然ながらそれらを否定しているわけではなかった。その人のマインドが問題なのだ。マインドは波動として伝わる。私はその波動に違和感を覚えたのであった。仏教では善行を行ってもそれを喋れば徳にならず、陰徳こそがあるべき徳の積み方であると言っているが波動の観点からみればそうなのだ。


世の中には依然として偽善が蔓延しているが多くの人がこれに気づくようになった。地球の波動が上がっているからであろう。偽善者にとっては生きづらい世の中になった。この傾向は今後ますます強まるであろう。後は気づいた人が自分を変える道を選ぶかどうか。私はまだ間に合うと思っているのだが。

(*1)バシャールに言わせれば自分が変わることによって今居る世界とは別の並行世界へ移動したため相手が変わったように見えるのだという。相手が変わったのではなく自分が変わったことによって変わった相手が存在する世界へ移動したのであると。私も瞬間、瞬間が映画のコマのようになっているのは何となくわかるし、それを感じさせる体験も何度かしている。だがまだ直接的な体験がないので何とも言えない。

(*2)同調の危険性というのは同調することによってそうした世界を自分の前に引き寄せてしまう(作り出してしまう)からだ。同調とは(無限にある可能性から)自分がそうした現実を選択することである。

一見すると私は血も涙もない人間のように見える。実際、昔は私自身もそう思っていた。しかし、今の私は“死”というものが存在しないことを知っている。“死”とは芋虫が蝶になることであることを知っている。そして自分に起こるすべての出来事は自分や他の人々の成長を促すためのものであることを知っている。