壁の上にプラーナ粒子の渦巻(ヴォルテックス)をつくると渦巻の漏斗が延びて壁に孔を開ける。渦巻はそれ自体が独立した空間として存在し、壁という空間を貫通する新たな空間をつくる。

空間を見るには意識の状態(波長)を変える。そうすると渦巻が透明なゼリー状の円錐形の空間を形成しているのがわかる。この空間を通れば別の世界へ行くことができる。こうしてヴォルテックスは次元のポータルとして機能している。


自らがつくったヴォルテックスの孔の中へ入って行くと物質界のような世界に出るのであるが、私はその世界がパラレルワールドではないかと思っている。というのはその世界へ足を一歩踏み入れた途端、私の人格がその世界の住人の人格と入れ替わることがあるからだ。

その一方で私の人格がそのまま残るケースがある。この時私は自己の意識を保ったままその世界の住人になる。この場合はいろいろと厄介なことが起こる。出会う人は“私”を知っているのに私はその人たちを知らないからだ。相手から話しかけられると返答に困る。いつも適当に相槌を打ってやり過ごすようにしているが肉体本来の持ち主に申し訳なく思う。

私の人格がそのまま残るケースにおいては思考の主体は私であっても肉体はその世界の住人のものである。これによってその住人が備えているスキルはそのまま利用できる。私はそのことを全く知らないのであるがなぜかそのスキルを使える。

ところで私がつくるヴォルテックスであるがそれはいつも壁の上につくっている。この壁は前回触れた「思考の壁」である。この「思考の壁」は私がオーバーソウルではないかと考えている凸レンズ状物体の表面である。凸レンズ状物体は前回述べた通り球状チャクラの上部にチャクラと一体化して存在しており両者で完全な球体を形成している。

私がヴォルテックスで孔を開ける場所は凸レンズ状物体の本体部分である。凸レンズ状物体の中心ではない(中心にはもともと孔が開いている)。
 

凸レンズ状物体の中心にある孔はチャクラの孔と繋がっている。チャクラもトーラス構造をしており回転しているのでヴォルテックスと言えなくもないが、むしろチャクラに流れ込むプラーナ粒子がヴォルテックスを形成する。チャクラは回転しているだけのようだ。しかも回転速度は極めてゆっくりである。一方、チャクラに流れ込むプラーナ粒子は高速でらせんを描いて流れている。このらせんを描く粒子の流れが上記のように別空間を形成する。

いずれにしてもチャクラの中心部の孔を抜ければ異次元の世界へ行くことができる。私の経験ではチャクラの中心を貫く孔は高次の世界と繋がっている。


チャクラの孔の内壁はスクリーンになっていてそこには様々な映像が映し出される。その映像の中へ入ればその映像の世界へ行くことができる。そこに映像が現れるのも自らの意識状態による。凸レンズ状物体の中心部の孔を通れば必然的にチャクラの孔に入り高次の世界へ行くはずである。

凸レンズ状物体の孔もその内壁にはスクリーンの機能があり様々な映像を映し出す。こちらも当然にその中へ入ることができる。


一方で私が凸レンズ状物体の本体(壁)にヴォルテックスでつくる孔はパラレルワールド(と思われる世界)に繋がっている。この世界はチャクラ本体の孔を通っていく高次の世界とは明らかに違っている。


そのパラレルワールドらしき世界は果たして何次元なのか。実ははっきりとはわからないのである。だが私は四次元ではないかと思っている。五次元の可能性は低い。なぜかというとその世界を満たしている空気感である。空気感というと漠然としているように思うかもしれないが言い換えればそれは波動であり最も重要な要素である。

波動は愛である。三次元物質界で生活していると波動=愛と言われても理解しにくいが高次の世界においてはその世界を満たす空気感(波動)が愛であることを実感する。これは愛が純粋な形(波動)で存在しているからに他ならない。三次元物質界でも本来すべてが愛であるのだが愛が純粋な状態で存在していないためそれを感じられないのである。

私が訪れるパラレルワールドの波動は明らかに高次の世界の波動とは違う。では五次元なのかというと残念ながら私は五次元の世界を全く知らない。感覚的には五次元ではないと思っている。おそらくその感覚は正しいだろう。四次元はまだ二元性が存在する世界であるから私は一元性の状態で四次元を訪れていることになる。地球に生れ落ちて間もない幼子と同じだ。