クンダリニーの意味についていろいろ語ってきたが要約すると次のようになるだろう。


「クンダリニーは(魂の)故郷へ帰還することを決める合図」である。
 

私は今、これを強く実感している。

分離のゲームを終了し故郷へ帰還する。五次元へのアセンションはその最初のステップだ。最終的には創造主(神)と合一するのである。


クンダリニーが梵の座を開く。分離のゲームに専念するために閉ざされていた門が開いたのである。

これでオーバーソウル(ハイヤーセルフといってもよい)とのチャネルは完全なものになった。オーバーソウルはその機会をずっと待っていた。これからは一日24時間365日、強力な波動を送り続ける。気づきを与え続ける。

永く物質界の波動に慣れ親しんだ身体や思考は一朝一夕にはいかない。それでもオーバーソウルはエネルギーを送り続ける。そしてついにはアセンション、そしてより高次の自分の可能性を追求するようになる。するとオーバーソウルは次々に必要なものを順を追って与えてくれる。そうして導いてくれるのだ。


オーバーソウルとは常に繋がっている。いつでもオーバーソウルにアクセスできる。24時間、聖人であろうと努力する必要なんてない。むしろ努力してはいけない。執着が努力を生んでいる。

執着がないこと。これが大切である。何事も執着せず、すべてを自然の流れに身を任せていればよい。執着さえなければ何をしても波動が下がることはない。好きなものを食べ好きなことをする。こうした俗人的なことも娯楽として楽しめばよい。自分にとって好ましくないものは自然と消えていくものだ(好みから外れていく)。

余談であるが帰還の過程(波動を上げていく過程)で様々な能力が身につく。不老不死であり、テレポーテーションであり、物質化であり、etc. 仙道やチベット密教、ヨガなどの専門書を読めばいろいろ書いてある。イエス・キリストが死者を生き返らせたり1000人を超える群衆に物質化したパンと魚を分け与えたりしたのもそうだ。これらは一見すると超能力である。だがこれは三次元物質界に居る今の我われと比較しているに過ぎない。本来我われは誰しも全能なのである。私もこうした能力に憧れたことがあった。だが今は全くと言ってよいほど興味はない。それらは単に本来の自分に戻りつつあることを示すひとつの例に過ぎない。もし超能力への憧れや執着があってもそれを否定してはいけない。否定は更なる執着を生む。今の自分を認め放っておけばよい。